高知城や土佐藩主山内家に特化した歴史博物館。平成29年(2017)3月の開館。 高知城や高知城下に関する展示はもちろん、高知城の主であった土佐藩主山内家に伝わった歴史資料や甲冑、刀剣といった武具類や、茶道具や能面といった美術工芸品を中心に展示してい…
高知県全体の歴史資料や民俗資料を展示している資料館で、どちらかといえば、民俗系よりも歴史系の展示が多い資料館となっている。そのためか、通称が歴史館となっているようだ。開館は平成3年(1991)5月3日。 四国をほぼ統一し、土佐の出来人と称された長宗…
安芸市に関する歴史資料や民俗資料を展示する資料館。昭和60年(1985)に開館した。 安芸の歴史は古く、平安時代から安芸郡という名があるように、安芸川や伊尾木川の運んだ土砂によって平野が広がり、早くから集落などが発展していたと思われる。 資料館は、…
東西に広がる高知県の東の南端にあたる、室戸半島南端の岬。 剣山から延々と続く山塊が太平洋へと落ち込む場所で、太平洋に三角に突き出した形状をしており、岬の突端を境として、西が土佐湾、東が紀伊水道となる。 室戸岬周辺の特徴的な地形は、海面上昇と…
岬に建つ叶埼灯台 足摺岬と沖の島の間に突き出している岬で、カナエザキと読む。 叶崎は、四国最南端の足摺半島の突端である足摺岬より知名度は低いのだが、「叶崎海岸を見ずして土佐風景を見たとはいえない」と、河東碧梧桐が言ったというほどの、風光明媚…
雨の桂浜 高知市の南に位置する、浦戸湾の入口にある浜。日本の渚百選のひとつ。 桂浜とは、正確には、浦戸湾の蓋となるように東へ張り出す浦戸半島南東端の龍王岬と、そのすぐ北東の龍頭岬の間にある本浜を指し、龍王岬の西の西浜や、龍頭岬の北側の東浜は…
足摺岬灯台と僅かに弧を描く水平線 東西に広がる高知県の西の南端にあたる、足摺半島の突端の岬。かつては足摺崎と呼ばれていたが、昭和40年(1965)に、世間一般に呼ばれていた呼称を追認し、足摺岬へと正式名称が変更された。 足摺岬は、岬全体では四国最南…
説明板では、非常に曖昧な古戦場の名となっているが、今の高知城の位置にあった大高坂山城を巡る北朝と南朝の戦いの跡である。 南北朝時代の土佐は、概ね北朝方が優勢に戦いを進めていたが、現在の高知市街である大高坂郷を支配していた大高坂松王丸は、南朝…
土佐の出来人と呼ばれた長宗我部元親の嫡子で、天正14年(1586)の戸次川の合戦において、22歳で討死した信親の墓。 信親は、永禄8年(1565)に元親とその正室との間に生まれ、幼名は千雄丸といった。 信親の母は、幕府奉公衆であった石谷光政の娘で、光政には、…
高知城下の国道33号線沿いにある坂本龍馬誕生地碑 幕末の志士、坂本龍馬直柔の生誕地。 坂本家は、明智光秀の一族の末裔という伝承を持ち、組み合わせ枡に桔梗という家紋が、同じく桔梗を家紋とした土岐氏の庶流である明智氏との繋がりを連想させ、さらには…
臨済宗妙心寺派の寺院で、山号は高福山、院号は幸福院と号す。四国八十八箇所霊場の第三十三番札所。 伝承では、弘法大師空海が開基で、延暦年間(782-806)、あるいは弘仁6年(815)に少林山高福寺という名で開かれ、当然ながら当時は真言宗の寺院であったとい…
ジョン万次郎として有名な中浜万次郎の像 ジョン万次郎こと中浜万次郎の立像で、地元の青年会が、昭和43年(1968)7月11日に建立した。 万次郎は、文政10年(1827)の元日に、足摺半島の中浜の漁村で生まれたが、漁師であった父が9歳の時に死去したため、早くか…
室戸岬の山塊を背に建つ中岡慎太郎像 海軍兵力を持つ坂本龍馬の海援隊と同様、陸軍兵力を持つ陸援隊を率いた中岡慎太郎の立像。昭和10年(1935)に、地元の青年団連合が建立した。 この中岡慎太郎像は、桂浜の坂本龍馬像から遅れること7年の建立で、その間には…
朝早くに土佐闘犬を散歩させる職員 土佐の闘犬を見学することができた施設。平成29年(2017)5月19日に閉園となった。 闘犬といえば、有名なのが土佐の闘犬だが、闘う犬は、狩猟や荷物引きに使われていた丈夫な四国犬に、明治以降にブルドックやポインター、グ…
桂浜を見下ろす坂本龍馬像 桂浜の端の小高い丘に立つ坂本龍馬の像。県青年団が昭和3年(1928)5月に建立した。 像の元になったのは、龍馬の写真として有名な立ち姿で、片手を袖に隠し、もう一方を懐に差して、髪の毛は鬢の辺りが縮れ上がっている。 龍馬は、天…
訪れた高知県のお城の記事作成が完了しました。 お城の数は全部で16城。 ここに栞を挟んでおきましょう。 高知県は、東西に長い県ですが、こうやって見ると、重要なお城は中央部に集中していることが解りますね。 県の東部や西部は、山が海にまでせり出した…
土佐七雄のひとつに数えられた津野氏が、累代に渡って居城した山城。半山(ハヤマ)城ともいう。 津野氏は、伝承によれば、史上最初の関白とされる藤原基経の次男仲平の子経高を祖とする。 経高は、その羽振りの良さを妬んだ同族に謀反の罪を着せられ、延喜10…
土佐七雄と呼ばれる有力国人のひとつ、大平氏の居城。 蓮池城は、この大平氏が築いたのではなく、平家の有力家人であった近藤家綱が、嘉応2年(1170)に築城したものと伝わる。 家綱は、地名から蓮池と名乗り、平家に反逆する可能性のあった源希義を討つなどし…
現地の案内板や地図には、波川玄蕃城とあるが、当時は波川城や波川小研城、葛木城と呼ばれていたようだ。ちなみに、波川はハカワと読む。 築城は、現地案内板によれば、天正元年(1573)頃に築かれたとあり、築城者は、長宗我部元親の妹婿であった波川玄蕃頭清…
三国司のひとつ、土佐一条家の詰城。 一条家は、公家の中でも最上位にあたる、関白や摂政を出す五摂家のひとつだが、応仁元年(1467)からの応仁の乱で京が荒廃すると、翌年に教房は一条家の荘園があった土佐へ下向した。これには、土佐七雄のひとつである大平…
南麓の秦神社の境内に建つ解説板 長浜城の南で繰り広げられた戸ノ本の合戦は、長宗我部元親の初陣として知られているが、その前哨戦である長浜城攻防戦で知られる山城。具体的な築城時期は不明だが、本山氏によって築かれ、その家臣大窪美作守が城主だったと…
須崎城のある城山の東南中腹にある城山公園の全景 土佐七雄のひとつとして姫野々城を本拠としていた、津野氏の支城であったという。だが、築廃城時期や城主などの詳細は判っていない。 津野氏は、その出自や系図、土佐入国の経緯など、不明な点が多く、藤原…
明けましておめでとうございます。 このブログも、開始から2年半となり、お城が441城、それ以外のスポットが430ヶ所、合わせて871ヶ所となりました。 我ながら毎日よくやって来たと思います。 ちなみに、去年も触れた「信長の野望 出陣」は、拠点4237ヶ所、…
土佐の国人松田氏の居城で、松田城ともいう。 この城がいつ頃に築かれたかのかは、はっきりとせず、城主であった松田氏についても、その系図や活動はよくわからない。宿毛は、土佐と伊予の国境付近に位置し、土佐と伊予、具体的には一条氏と西園寺氏の境の城…
天正元年(1573)に、長宗我部元親の家臣であった久武親信が佐川一帯を与えられ、それまでの一帯の拠点であった松尾城の水不足を嫌い、新たに築城したという。 佐川一帯は、南北朝時代初期には佐河四郎左衛門入道が支配していたと見られ、四郎左衛門入道が、今…
高知城は、山内一豊が本格的に築いた城だが、その前身として、南北朝時代の延元年間(1336-40)に、南朝方として活動した大高坂松王丸が高知城のある大高坂山に城を築き、後醍醐天皇の第7皇子満良親王に比定される花園宮を迎え、北朝方と戦ったという。 だが、…
久礼中学校の校門左手にある碑と久礼城遠景 土佐の国人佐竹氏の居城で、築廃城時期不明の山城。 土佐佐竹氏は、近世大名としても有名な常陸佐竹氏の庶流である。入部年代としては、戦国時代という説もあるが、それ以前から活動が見えることから、承久3年(122…
土佐の国人窪川氏の居城。茂串山城とも。 窪川氏は、仁井田荘を領していた五人衆と呼ばれる国人のひとつである。出自としては、相模の山内氏の流れで相模の国から明応9年(1500)に入部したとも、土佐七雄のひとつである津野氏の流れともいう。 窪川城を築城し…
土佐七雄に数えられた、有力国人吉良氏が居城とした山城。弘岡の地を治める城であるため、弘岡城とも呼ぶ。 吉良氏は、三河が本貫の足利系吉良氏の庶流という説もあるが、同じ清和源氏の源希義の流れという説が一般的である。希義は、源義朝の五男で、頼朝の…
四国を統一した長宗我部家累代の居城。 長宗我部氏は、蘇我氏の部民である宗我部の末裔という説もあるが、一般的には、秦の始皇帝や、ローマである大秦、秦韓国がルーツという伝承を持つ渡来系の秦氏の末裔といわれる。 長宗我部氏の直接の祖は、聖徳太子の…