Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

お城-崖城

深沢城

城跡の入口に建つ深沢城址碑 深沢城としては、今川氏親の築城が最初となるのだが、それ以前に葛山氏の庶流深沢氏の居館があったと推定されている。 葛山氏は、鎌倉期から駿東に御家人として勢力を張っており、城から南へ10kmほどの葛山付近を本拠としていた…

諏訪原城

武田氏時代に諏訪原城、徳川氏時代に牧野城や牧野原城と呼ばれた城。平野から見ると峻険な坂の上にあるが、頂上部は平坦で郭が広いという平山城で、正確には崖城と言うべきだろう。 築城は天正元年(1573)で、武田勝頼が家臣の馬場信春に命じ、武田信豊に補佐…

小山城 (甲斐)

小山城の築城時期は不明であるが、宝徳2年(1450)には穴山伊豆守が居城していた。 この伊豆守は、上杉禅秀の乱に加担して討伐された甲斐守護武田信満の弟で有力庶家である穴山氏を継いでいた、満春の子といわれているが、信満の嫡子で従兄弟にあたる信重によ…

南熊井城

南熊井城の表示と解説 田川の河岸段丘に築かれた崖城。 南熊井城の事跡は、僅かしか見られない。城の位置関係から見て、東の北熊井城の支城として運用されたことは想像に難くない城だが、「片丘村誌」には、嘉吉2年(1442)に大和織部正の熊野井館として登場し…

小諸城

千曲川の断崖上にある崖城。 川沿いの断崖に築かれた城は、一般的に平坦な地形に築かれる場合が多く、城や城下町は、平城のように同程度の高さというのが多いのだが、同じく崖際に築かれた小諸城は、崖から離れた場所にある城下町よりも城内が低い穴城となっ…

春日城

春日城本丸 春日城の沿革 平氏の末流粟田口重吉の16代の孫と称する春日重慶が、天文3年(1534)に3百貫の領地を得てこの地に築城したのが城の始まりで、春日の姓から春日城と呼ばれたが、重慶は後に伊那部姓を名乗ったことから、伊那部城とも呼ばれる。 当時、…

上田城

千曲川の分流である尼ヶ淵にあった河岸段丘の断崖上に建っていた城で、台上から見れば平城、川の側から見れば平山城に見えるという、いわゆる崖城である。天正11年(1583)に真田昌幸によって築かれたが、その前身には土豪小泉氏の館か砦があり、小泉郭がその…

東町城

東町城跡に建つ模擬天守である神岡城と城門 地図上には神岡城ともあるが、それは模擬天守の名で、当時の城名ではない。往時は東町城や沖野城、野尻城と呼ばれていたようだが、現地案内板には東町城の名で記されていた。 築城は、永禄7年(1564)という。当時、…

諏訪城 (萩原諏訪城)

飛騨随一の勢力を誇った姉小路氏こと三木氏の居城であった桜洞城に代え、萩原地方の治所として築かれた城。飛騨国内に他の諏訪城があるため、一般には地名を冠して萩原諏訪城と呼ぶ。 天正10年(1582)に本能寺で信長が横死した後、その後継者争いの中で柴田勝…

桜洞城

農地の脇にある桜洞城址碑 飛騨南部を掌握していた三木氏の居城。 三木氏はミツキと読み、そもそもは佐々木京極氏、あるいはその守護代である多賀氏の被官である。血統としては、宇多源氏佐々木氏流多賀氏の庶流ともいわれるが、多賀氏自体は、多賀大社を氏…

吉田城

吉田城本丸と復元された鉄櫓 東三河の松平氏や、渥美半島の戸田氏に対する楔として、今川氏親が在郷の武士である渡辺平内治の屋敷を接収し、家臣牧野成時ら宝飯郡の国人地侍に築かせた城で、当初は今橋城と呼ばれた。 築城後に城主となった牧野氏は、東三河…

那古野城

名古屋城二ノ丸にある那古野城城址碑 江戸時代に名古屋城があった場所には、戦国時代には那古野と称する古城があった。織田信長が幼少期を過ごした城として有名な城である。 那古野城の一帯は、平安時代末期に開発された那古野荘という荘園で、東大寺別当小…

名古屋城

名古屋城大天守と小天守 三大名城に数えられる事もある城で、徳川御三家のひとつである尾張徳川家の居城。 名古屋城の城地には、戦国時代にも城があった。一説に信長が生まれた場所ともいう那古野城である。この那古野城が天正10年(1582)頃に廃された後、城…

勝山城 (越前)

九頭竜川の河岸段丘上にあった城で、柴田勝家の一族である柴田義宣の養子勝安が、一向一揆討伐後の天正8年(1580)に築いた城。 勝山市街には、戦国時代に毛屋と袋田という2つの集落があり、袋田の集落に築かれた勝山城は袋田城とも呼ばれる。袋田には、義宣の…

水口城

資料館の敷地となっている本丸番所跡 水口には、羽柴秀次の補佐役となっていた中村一氏が天正13年(1585)に築いた岡山城があり、これも当時は水口城と呼ばれていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に廃城となっていた。寛永11年(1634)になり、将軍家光は京…

鯰江城

鯰江城址碑と説明板 愛知川沿いにある10m程の河岸段丘上にある城で、城郭内は平坦な平城の形式であるが、川の側から見ると平山城に見える。往時はもっと川が迫る崖であったらしく、いわゆる崖城であったのだろう。 鯰江は、鎌倉時代より荘園があったことが史…

大坂城

中世の大阪の地は渡辺といい、渡辺党という嵯峨源氏流の武士団がいた。その始祖は渡辺綱で、大江山の鬼退治で有名な摂津源氏源頼光の四天王と呼ばれ、その子孫は水運の権益を保持し、戦国時代まで一帯に勢力を持っていたという。 一方、戦国時代に入った明応…

三田城

三田城址碑 戦国時代末期から江戸時代の摂津国有馬郡の中心となった平山城の崖城。 三田周辺は、南北朝時代に室町幕府草創の功臣である赤松円心則村の四男氏範が有馬郡へ進出し、三田城から北へ4km弱の東野上城を築いて本拠としたのが有馬郡の首邑としての始…

豊地城

東条川左岸の河岸段丘に築かれた、ほぼ平城とも言える崖城で、トイチと読み、拾市城とも書かれる。恐らくは、東条川沿いの街道筋に立った十日市が語源なのだろう。 豊地城の最初期は、劣勢の南朝方の再建の為、播磨で挙兵した新田一族の金谷経氏が拠点とした…

箕谷城

箕谷城跡公園の碑 城の歴史については、現地に案内板などが無く、さらに手持ちの資料などを探してみたものの、この城に関することは何も記載されておらず、事跡不詳としか言いようがない。 箕谷周辺の歴史を辿ると、南北朝時代の初期の建武4年(1337)に、新田…

福中城

宝珠寺に残る間島氏と福中城の説明碑 国道175号線の芝崎交差点から福中交差点付近にあった城で、赤松政則が土師道海に縄張させて文明年間(1469-87)に築城したとされ、東から延びる舌状台地の先端部に作られた崖城であった。 城主は赤松庶流の間島氏で、真島…

枝吉城

名族赤松家の老臣であった播磨の豪族明石氏の居城で、築城は南北朝時代か、応仁元年(1467)からの応仁の乱の頃と見られる。城名は、シキツとする本もある一方で、現地の住所はエダヨシと読み、双方の読み方の説があるのだが、城が在った当時に呼ばれていた名…

淡河城

天守台にある淡河城城址碑 国人淡河氏累代の居城。 淡河氏は鎌倉幕府執権の北条氏の裔で、承久の乱後の整理で承久4年(1222)に右近将監成正が地頭職となり、子孫が地名から淡河を称したという。また、一説には、地頭となったのは北条時政の孫時盛の子である朝…