Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

お城-平城

江尻城

武田氏の駿河支配の拠点として築かれた城。小芝城ともいう。 江尻城が築かれた背景には、武田信玄の駿河侵攻がある。甲斐の武田氏と駿河の今川氏は、信玄の父信虎の代から誼を通じ、信玄の代には北条氏を含めた三国同盟を形成した。しかし、永禄3年(1560)に…

下山城

河内地方を統治した穴山氏の居城。 この下山城の場所には、かつては下山氏の居館があったという。下山氏は、甲斐源氏である加賀美遠光の孫光重を祖とし、光重が建仁年間(1201-04)に下山に入部して地名を称したのに始まるといい、居館も入部時に築かれたもの…

松本城

言わずと知れた国宝5城の内のひとつ。 深志郷を領していた坂西氏の、1町四方程度の居館の上に、永正元年(1504)に小笠原氏の一族、島立貞永が築城した城で、小笠原氏の本拠である林野城の支城として築かれ、深志城と呼ばれていた。以後、大永年間(1521-28)に…

龍岡城

幕末に築かれた西洋式の星形要塞は、函館の五稜郭が有名であるが、日本にはもうひとつの五稜郭があり、それがこの龍岡城である。別名として、龍岡五稜郭とも呼ぶ。 龍岡城が築かれたのは、その形状から解るように、幕末である。 当時の田野口一帯の領主は、…

高島城

高島城復興天守 諏訪地方に高島城と名の付く城は戦国時代にもあったが、それは現在の高島城の北東1kmほどの場所にあった城で、茶臼山に在ったことから茶臼山城とも呼ばれる別の城である。 現在の高島城は、徳川家臣となった諏訪頼忠が家康と共に関東へ移った…

海津城 (松代城)

海津城城址碑 海津城二ノ丸から本丸の戌亥櫓台と北不明門 戦国時代は海津城と呼ばれ、江戸時代は川中島城や松代城と呼ばれた平城。城の前身としては、清野氏の居城があった。 清野氏は、村上氏の一族、つまり信濃源氏の裔といわれ、宗家にあたる村上氏に属し…

琵琶島城

詳しい築城年代は不明だが、近くの鵜川神社の由緒によると、上杉房方に従って伊豆から入部した宇佐美秀満の弟祐益が、応安元年(1368)に築城したとあり、それ以降、戦国後期まで宇佐美氏の居城だった。また、字は枇杷嶋、枇杷島、琵琶嶋とも書く。 宇佐美氏は…

長岡城

長岡城本丸跡の碑と石垣をモチーフにした石材のオブジェ 江戸時代の長岡藩の城。芋引形兜城ともいう。 長岡城が築かれる以前は、古くは越後長尾氏の一族であった古志長尾氏の景春が、やや北の信濃川沿いにあった蔵王堂城に在ったことが見え、戦国時代には上…

高田城

江戸時代の上越を治めた高田藩の城で、徳川家康の六男松平忠輝の居城として、直江津にあった福島城を廃して慶長19年(1614)に築城された。 忠輝の舅であった伊達政宗が普請総裁となり、東国13大名が普請して4ヶ月という短期間で完工したが、時間的制約からか…

新発田城

新発田藩溝口氏の城であるが、古くは越後の国人新発田氏の居城があった。 城は、平野部にあった平城だが、周囲は湿地や沼、深田に囲まれ、さらに戦時には加治川の堤防を切って難攻不落の城と化したという。そのため、浮船城という名もある。 新発田の古城の…

蔵王堂城

城跡のすぐ隣にある金峯神社は、江戸時代以前の神仏習合の時代には蔵王権現と呼ばれており、その蔵王堂の横に築かれたことが、蔵王堂城の名の由来という。 城の前身は、南北朝時代に北朝方だった揚北の中条氏が置いた陣で、正平7年(1352)に南朝方の風間信昭…

安田城

安田城は、天正13年(1585)の秀吉による佐々成政討伐の際に築かれたと推測されている。ただし、築城年代については異説もあり、更に年代が遡る可能性もあるようだ。今後の史料発掘が待たれる。 築城年とされる天正13年(1585)頃の情勢としては、前年の11月に小…

富山城

天文12年(1543)に、神保家臣であった水越勝重が、神通川による自然堤防の微高地に築いた平城。 この勝重には、現在は否定されているが、神保家を再興した長職と同一人物という話が「越登賀三州史」にあり、かつては同一人物と見られていた。また、城自体は、…

高岡城

慶長14年(1609)、加賀藩2代藩主前田利長の隠居城となっていた富山城が、城下からの火災によって城内の建物のほとんどを焼失してしまった。これにより、利長は一時、魚津城に身を寄せるのだが、やがて、富山城の再建ではなく、新たな隠居城として関野の地に城…

魚津城

松倉城から角川をまっすぐ下ったところにあるという立地場所でも解るように、魚津城は、もともとは松倉城の支城として築城された。築城年代に関しては、建武2年(1335)に椎名孫八入道が築城したという説もあるが、魚津市では、15世紀に同じく椎名氏によって築…

松任城

松任城の築城者には諸説あるが、現地の年表には、加賀介近藤師高が平安時代末期の安元2年(1176)に館を築いたのが最初とある。 この加賀介近藤師高は、加賀守であった藤原師高のことで、平家物語にも登場し、鹿ヶ谷事件に連座して討たれる人物なのだが、安元…

小松城

梯川を外堀として廻らす平城で、もともと芦原だった湿地帯を切り開いて築城されているため、芦城の別名がある。梯川とそれに付随する湿地が、防御の要となっていたのだろう。 築城の伝承としては、本願寺配下の武将若林長門が天正4年(1576)に築いたというの…

増島城

増島城南東面の野面積の石垣 天正13年(1585)に、秀吉の家臣金森長近によって飛騨を統一していた姉小路頼綱が討伐された後、古川城に入った長近の養子可重が、翌年に古川盆地支配のために築いた近世平城。 増島城の築城後は、可重がそのまま城主となっていた…

伏屋城

岐南町の伏屋地区にあった平城。 美濃攻略を目指す信長が、秀吉に命じ、永禄年間(1558-70)に築かせたという。 秀吉は、木曽川周辺の土豪の協力を得、用材を筏に組んで木曽川に流し、一気に運び込んで短期間のうちに砦のような城を築いたといい、その伝承のた…

墨俣城

一般に伝わる伝説では、長良川とその支流が入り混じるこの地に、かの秀吉は一夜で城を築いたとされており、一夜城とも呼ばれる。 永禄7年(1564)に犬山城の織田信清を国外へ追い、尾張一国の支配を確立した信長は、次の目標を美濃に定め、墨俣に橋頭堡となる…

黒野城

黒野城址碑と本丸土塁 文禄3年(1594)に甲斐より入封した、加藤貞泰によって築城された平城。 貞泰の父光泰は、最初は斎藤氏に仕えていたが、その滅亡後は秀吉に仕え、天正10年(1582)の本能寺の変の後は、丹波亀山城や近江高島城、大垣城などの城主を務めた。…

北方城

入り組んだ住宅地の中にある北方城址碑 西美濃三人衆のひとりに数えられた、戦国時代の武将安藤守就の居城。 安藤氏の出自は明確ではないが、藤原秀郷の流れである伊賀氏の出とされる。伊賀氏は、鎌倉時代初期の朝光の時に伊賀守の官名から名乗りを変えた家…

川手城

美濃守護を累代に渡って務めた土岐氏の居城。革手城とも書き、現地でも、城址碑は川手、説明板は革手の表記だった。 土岐氏は、現在でも土岐という地名があるように、美濃国土岐地方に興った武士団である。その祖は、ライコウさんとも呼ばれる摂津多田源氏の…

加納城

加納城の本丸石垣と埋め立てられた内堀の跡 加納城の南東には、室町時代に美濃国守護であった土岐氏の本拠革手城があり、加納城のあった場所には、土岐氏の下で守護代を務めていた斎藤利永が、文安2年(1445)に築城した沓井城があった。ただ、城と言っても、…

加賀野城

文保元年(1317)に後藤基直が築城したとされ、以降は後藤氏累代の居城であった平城。 加賀野城の後藤氏の出自は詳らかではないが、美濃守護代斎藤氏と同じく藤原利仁の流れで、斎藤伊博の子後藤公則から派生した後藤氏の後裔ではないだろうか。この系統には、…

大垣城

大垣城は、応仁年間(1467-69)にはすでにあった平城で、この地の代官職をしていた大垣氏が築城したとされる。築城当初は東大寺城と呼んでいたが、大垣氏の居城であることから、いつしか大垣城と呼ばれるようになったという。 大垣城が本格的な城として機能す…

吉田城

吉田城本丸と復元された鉄櫓 東三河の松平氏や、渥美半島の戸田氏に対する楔として、今川氏親が在郷の武士である渡辺平内治の屋敷を接収し、家臣牧野成時ら宝飯郡の国人地侍に築かせた城で、当初は今橋城と呼ばれた。 築城後に城主となった牧野氏は、東三河…

古渡城

信長の父織田信秀が自らの居城として築いた城。 現地案内板には天文3年(1534)築城とあるが、同8年(1539)の築城説もあり、後者の方が定説になりつつあるという。ただし、どちらの説でも築城と同時に本拠にしたというのは変わらない。 織田氏は、もともとは越…

那古野城

名古屋城二ノ丸にある那古野城城址碑 江戸時代に名古屋城があった場所には、戦国時代には那古野と称する古城があった。織田信長が幼少期を過ごした城として有名な城である。 那古野城の一帯は、平安時代末期に開発された那古野荘という荘園で、東大寺別当小…

名古屋城

名古屋城大天守と小天守 三大名城に数えられる事もある城で、徳川御三家のひとつである尾張徳川家の居城。 名古屋城の城地には、戦国時代にも城があった。一説に信長が生まれた場所ともいう那古野城である。この那古野城が天正10年(1582)頃に廃された後、城…