Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

お城-海城/水城

下田城

下田城の築城時期は不明だが、延元2年(1337)の古書に本郷氏島城主志水長門守とあり、この本郷は稲生沢川の下流域に現在も残る地名で、氏島城が鵜島城、すなわち下田城のことであるという。このことから城は、南北朝時代には既に在ったようだ。 その後、城の…

高島城

高島城復興天守 諏訪地方に高島城と名の付く城は戦国時代にもあったが、それは現在の高島城の北東1kmほどの場所にあった城で、茶臼山に在ったことから茶臼山城とも呼ばれる別の城である。 現在の高島城は、徳川家臣となった諏訪頼忠が家康と共に関東へ移った…

東端城

東端城説明碑 ヒガシバタと読み、現地説明碑には、天正8年(1580)に長田尚勝によって築かれた城とあるが、安城市では、松平信忠が大浜称名寺に禁制を与えた文亀3年(1503)と同じ頃に整備されたとしている。 城は、信忠の居した安祥城と大浜の間にあるため、そ…

羽豆崎城

羽豆岬にある城。読みは、師崎がモロザキと濁るため、同様にハズザキと濁って読むのだろう。また、羽豆城や幡豆崎城とも書く。 羽豆崎城は、熱田神宮大宮司家の千秋氏によって南北朝時代に築かれた。地形を見ても解るように、陸地の繋がりよりも水運の要とな…

田原城

戸田氏によって築かれた城。 三河戸田氏は、寛政重修諸家譜には藤原北家流正親町三条氏の出とあり、公治の子実興が下向し、その子宗光の時に戸田を称したというが、清和源氏の出自とする説もある。清和源氏説では、源義家の曾孫で美濃森氏の祖となる森頼定の…

形原城 (稲生城)

形原城址碑 三方を海に面した海城の平山城で、稲生城ともいう。 形原城には、築城に関しての伝説があり、方原師光として知られる源師光が、一帯の荘園の下司となった際、久安5年(1149)に居館を造り、それが形原城の前身になったとされる。師光は、新羅三郎義…

鳥羽城

鳥羽の地は、戦国時代までは志摩十三地頭の筆頭であった鳥羽氏が治めていた。鳥羽氏は、後鳥羽天皇の末裔を称したとも、本姓は橘氏であったともいわれ、北朝の命で泊浦御厨の警固のために志摩へ下ったのがその最初という。戦国時代の当主である鳥羽主水は、…

高浜城

高浜城本丸跡の城址碑 永禄8年(1565)に、若狭守護武田家の有力家臣であった逸見昌経が築城したと伝えられる平山城の海城。 逸見氏は、主君である若狭守護武田氏と同じ甲斐源氏の出で、武田氏初代信義の兄逸見光長が祖という。ただ、信義の系からも逸見姓を名…

金ヶ崎城

金ヶ崎城跡周辺の案内図 敦賀湾に突き出た半島の小山に位置する、三方を海に囲まれた海城の山城。読みは、城跡を境内地とする金ヶ崎宮がカネガサキと呼ばれていることから、カネガサキが正しいのだろう。 築城時期は古く、源平合戦の頃に平通盛が木曽義仲に…

小浜城

小浜城の小天守台と大天守台石垣 小浜城は、北川と南川、多田川が集まる地点の三角州の中に、この地に入部した京極高次が築城した平城で、雲浜城ともいう。 高次は、名門である近江源氏京極氏の末裔で、京極氏は、戦国時代には浅井氏に下剋上され、近江北半…

彦根城

彦根城天守閣 言わずと知れた国宝五城の内のひとつ。 徳川四天王のひとりである井伊直政は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に近江東部を与えられ、石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城一帯は、東国や北陸と京を結ぶ要衝で、過去にも名だたる…

長浜城

長浜城模擬天守と城址碑 長浜城の前身である今浜城は、バサラ大名として名を馳せた京極道誉こと佐々木高氏の家臣、今浜六郎左衛門が南北朝時代の建武3年(1336)に築いた。 この今浜氏は、今浜に勢力を持っていた在地豪族であったが、後には坂田郡上坂田を本拠…

膳所城

膳所城跡公園にある城址碑 琵琶湖に張り出した平城の水城で、日本三大湖城のひとつ。 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦直前に、その前哨戦としての籠城戦があった大津城を廃して、合戦翌年に築城された。その理由は、大津城が籠城戦の際に、近くの長等山から城内…

坂本城

坂本城址碑 元亀3年(1572)に明智光秀によって築城された城。琵琶湖の水を取り込んだ水城で、当時は大天守や小天守を擁し、安土城に次ぐ壮麗な城だったという。 築城目的は、その立地場所からも解るように、西の比叡山に対する監視と、東の琵琶湖からの水上交…

岡山城 (水茎岡山城)

湖岸道路沿いにある水茎岡山城址碑 水茎岡山城は、水茎内湖に存在していた浮島のような丘陵へ、南北朝時代に湖上交通の押さえとして六角氏が築いた城であった。当時は岡山城や尾山城と呼ばれ、今の水茎岡山城の名は、後世に他の岡山城との区別のために付けら…

大溝城

大溝城天守台 信長が、六角氏や浅井氏を滅ぼして近江を平定した後、湖西の要地である高島郡は磯野員昌に与えられ、新庄城がその拠点であった。 員昌は、もともとは浅井家の重臣で、要衝佐和山城を任されていたほどの勇将であったが、元亀元年(1570)の姉川の…

大津城

秀吉が、天正14年(1586)頃に坂本城を廃し、坂本城主だった浅野長政(長吉)に命じて大津に築城移設したのが、大津城の最初である。 坂本城の機能を大津へ移した理由は、秀吉が叡山と和睦した事によって坂本城の戦略的価値が薄れた事と、信長時代は、安土城から…

安土城

言わずと知れた信長の本拠で、壮大な平山城である。 天正4年(1576)1月、信長は、琵琶湖に張り出していた独立丘陵で、観音寺城の支城があった安土山へ築城することを丹羽長秀に命じ、3年の歳月をかけて壮大な天守を持つ城を出現させた。 一般に、安土城の天守…

田辺城 (紀伊田辺城)

田辺城水門跡 正式には田辺城というが、他にも田辺城があるため、紀伊田辺城や錦水城とも呼ばれる。錦水城の名から分かるように、川と海に面した水城であった。 戦国時代の紀伊は、畠山氏が守護を務め、その影響力は戦国時代後期まである程度は維持されてい…

宮津城

宮津城解説板 室町時代の丹後は、一色氏が若狭武田氏や山名氏と争いつつも、ほぼ守護職を世襲し続け、戦国期までその勢力を保っていた。戦国末期の当主義道は、信長の上洛以降、その勢力伸張を見て接近したが、将軍足利義昭が天正元年(1573)に信長追討の兵を…

笠岡城

山を崩してその土で造成された眼下の笠岡干拓地 城のあった古城山は、昔は島だったとも応神山と連なっていたともいわれており、海に面した標高約70mの山に築かれた海城であった。 最初に築城したのは、桓武平氏の平貞盛の流れとも大江氏流とも伝えられる陶山…

由良古城

近世に由良城とも呼ばれた成山城と区別して、由良古城や単に旧由良城とも呼ばれる。 淡路は昔、淡路国として一国を成し、室町時代には四国と本州を結ぶ交通の要衝であった。この紀伊半島から淡路、瀬戸内という海域を重要視した室町幕府2代将軍義詮は、熊野…

由良城

由良城があった成ヶ島の成山の全景 成山城とも由良成山城とも呼ばれ、安宅氏ゆかりの中世の由良古城とは区別される。 由良には、南北朝時代以来、熊野水軍であった安宅氏の本拠が海を挟んだ淡路島側にあったが、天正9年(1581)に秀吉によって討伐され、以降は…

船上城

船上城のあった一帯には、古くは室町時代に赤松氏が砦を構えていたという。城からすぐ北の和坂には、嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際に、幕府を迎え討つ赤松軍の陣が置かれており、それと連動して防衛線の役割を担ったのかもしれない。 戦国時代の永禄年間(155…

花隈城

花熊城や鼻熊城とも書かれることがある平山城の海城。 築城年代は、永禄10年(1567)とも天正年間(1573-93.1)の初期ともいわれ、信長の命を受けた荒木村重によって築城されたという説が一般的だ。しかし、永禄10年説であれば、上洛した信長が摂津池田の池田勝…

叶堂城

叶堂城城址碑と碑文 叶堂城は、それまでの三原平野一帯の水軍基地であった数km南の志知城を廃し、水軍基地としての利便性を優先してより河口近くに築かれた城である。 豊臣政権成立当時の淡路は、洲本に脇坂安治、志知に加藤嘉明という、七本槍にも数えられ…

岩屋城 (絵島ヶ丘岩屋城)

淡路島北部の岩屋には、岩屋城と呼ばれる城が2つある。その内のひとつがこの城で、便宜上、絵島の向かいの絵島ヶ丘にあることから、絵島ヶ丘岩屋城とした。ちなみにこの丘陵の名は三対山とも呼ばれる。 この城の城地には、元は絵島明神や岩屋明神と呼ばれた…

赤穂城

大手門と大手隅櫓 今の城跡周辺は平地化しており、ただの平城に感じるが、元々は海際に築かれた海城で、周辺地名にあるように加里屋城や苅屋城とも呼ばれた。 赤穂城の前身の城を築城したのは、播磨守護赤松氏の一族である岡光景とされ、享徳年間(1452-55)の…