Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

芦屋城

 

芦屋城からの諸寄の眺め

 良港の諸寄を押さえる城で、塩冶氏の居城。阿勢井城や亀ヶ城とも呼ばれる。

 諸寄は、江戸時代に日本海航路の風待ち湊として発展したが、もちろん中世でも良港としての機能があり、城と港は重要な関係にあった。城の築城時期は南北朝時代とみられるが、城主であった塩冶氏も諸寄を支配したことから、やがて必然的に水軍としての力を持つようになったという。

 この塩冶氏は、近江源氏佐々木流塩冶氏の末流と考えられる。塩冶氏は、頼朝に従って功を挙げた佐々木秀義の五男義清が出雲と隠岐の守護となり、その孫頼泰が出雲国塩冶郡を本拠として塩冶を称したのが始まりで、南北朝時代には高貞が塩冶判官として名を揚げた。その高貞の甥通清の四男が周防守であり、この人物か、その子が山名氏に仕えて但馬に住んだらしく、秀吉に滅ぼされた人物も周防守を名乗っていることから、官職名を世襲にしていたのなら、芦屋城主の塩冶氏は恐らくこの流れと思われる。ただし、その頃から芦屋城が本拠であったかどうかはよく分からない。

 南北朝以降も、塩冶氏は山名氏に従っていたようだが、山名氏が因幡守護家と但馬守護家に分かれると、出石の但馬山名氏に従った。永禄12年(1569)に山中幸盛が尼子氏再興の軍を起こすと、但馬山名氏の当主祐豊はこれを支援し、城主である塩冶周防守高清も協力したようだが、毛利氏の依頼によって同年8月に祐豊が織田軍の侵攻を受け、堺に落ちると、高清は織田氏に従ったと見られる。

 その後、因幡山名家を継いでいた山名豊国と通じたことから、元亀2年(1571)に因幡で最も勢力のあった武田高信に城を攻撃されるが、これを撃退し、高信の配下や重臣を多く討ち取った。だが、高信が天正3年(1571)頃に因幡で勢力を失うと、驚くことに高信は高清を頼り、高清を通じて毛利氏に助命嘆願をしている。このように、山名氏を中心として因幡と但馬は密接に関わり、両国の諸豪族には複雑な関係性があった。その中で、高清が一定の影響力を持っていた事が解る。

 天正8年(1580)から始まった秀吉の但馬因幡攻略戦では、抵抗した主家但馬山名氏が開城滅亡した後、降伏した八木氏や垣屋氏が秀吉側の先鋒となって攻め寄せると、高清は城を放棄して鳥取城の豊国を頼っている。そして、頼った先の鳥取城でも秀吉軍と戦い、鳥取城の出城である雁金城、丸山城と転戦した後、開城の際に切腹した。高清の子孫は、鳥取城で共闘した縁か、吉川氏の家臣になったという。

 秀吉が但馬因幡を征服すると、芦屋城はその部将宮部継潤の支配するところとなり、城代としてその家臣である勝野氏や浅見氏の名が見える。だが、宮部氏は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属し、戦後に改易されて奥州へ追放された。そして、宮部氏に代わってこの辺りを支配したのは若桜に入部した山崎家盛だったが、この山崎時代の初期には既に城という防御施設としての機能は失われて陣屋が置かれており、宮部氏時代の末期か関ヶ原の合戦直後に城自体は廃城となったようだ。

 城は、三方を断崖と海に囲まれた標高176mの山に築かれ、その山容もかなり急峻である。現在は城山公園として整備されているが、その急峻な山容の為か、見た限りでは本丸以外の郭らしい郭は残っておらず、散策できる範囲に堀切も見られなかった。ただ、遊歩道から直登すれば、二ノ丸があるようだ。当時も、平坦地や堀切等の人工的な防御機能は少なく、主に地形を防御力として機能させた中世の小規模な山城だったのではないだろうか。

 公園の駐車場や本丸からは、往時と変わらず諸寄を一望することができ、訪れた時は弁当を食べている人が何組かわざわざ登って来ていたが、その気持ちが凄く分かるような素晴らしい景色だった。遊歩道は整っているので、登りやすい城である。

 

最終訪問日:2001/10/25

 

 

この城は、いかにも湊に睨みを利かせる城という感じですね。

湊を両手で包むような地形の、その手の位置にある城。

ただ、現地は城跡よりは展望台的な感じでした。

調べたら二ノ丸があるようなで、機会があれば、装備を揃えてもう1度散策したいですね。