Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

出石城

城の象徴となっている三ノ丸の辰鼓楼

 出石周辺は、円山川沿いの但馬国府からほど近く、古代には袴狭地区に国衙が置かれていたともいわれる。また、室町時代には、但馬国の守護を務めた山名氏の本拠が、出石市街からやや北の此隅山城にあった。

 室町時代中期に栄華を誇ったその山名氏も、乱世の中で次第に衰えて行き、戦国時代末期には中央を制した織田家によって当主祐豊が城を追われ、一旦は滅んでしまう。その後、織田家に臣従することを条件に天正2年(1574)に祐豊が但馬へ復帰するのだが、この時、出石城の後背にある有子山に新たに城を築き、本拠を移した。これは、人心刷新を図ったのと防御力強化が目的だったようだが、これによって城下町の移動なども起こったと思われ、この本拠移動が現在の出石市街の実質的な出発点となる。

内堀だった谷山川と復元された模擬櫓

 この後、祐豊は毛利家に寝返って再び討伐された為、有子山城は秀吉の家臣らが城代を務めていたのだが、天正13年(1583)には四国征伐の功として前野長康が城主となり、文禄4年(1595)には父とは別に領地を与えられていた小出吉政が入部している。吉政は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では西軍に属して田辺城攻略戦などに参加したが、弟秀家の活躍によって許され、同9年(1604)の父秀政の死後、秀政が領していた岸和田藩を継ぎ、出石は嫡子吉英が相続した。この吉英が山上の郭を廃し、麓に構えた居館を中心に築いた城が出石城である。

本丸の様子

 その後、吉政の死後も同様に吉英が岸和田を継ぎ、出石は吉英の弟吉親が継いだ。そして、吉英が再び出石へ移封となって戻ると、押し出される形で吉親は園部に移って園部藩を立藩し、結果的には園部藩の小出氏が幕末まで続いた。それに対し、出石城を築城した本家筋の小出氏は、吉英から5代で嗣子無く断絶してしまっている。この辺りの経緯は、少しややこしい。

 元禄9年(1696)の小出本家の無嗣除封後、出石城には藤井松平家を挟んで宝永3年(1706)に信州上田から仙石政朗が入部し、そのまま維新まで続いた。しかし、幕末が近い天保6年(1835)に、仙石騒動と呼ばれるお家騒動で5万8千石から3万石へ減知されている。ちなみに、名物となっている出石そばは、信州上田から政明が入部した際、そば職人を連れてきたことに始まるという。

縄張図

 現在の出石城が形造られたのは、前述のように吉英の時代で、統治上の利便性から山の麓を開削して城郭として整備し、有子山城を廃して移ったのが最初である。構造的には、谷山川を内堀として山側に下ノ郭と西ノ郭を置き、その上に二ノ丸、本丸、稲荷丸と山へ階段状に設けた典型的な梯郭式の平山城であった。平地部分は、谷山川の北に三ノ丸を、西ノ郭の西に西ノ丸を置き、その西に出石川、北に外堀を設けて防御を固めていたが、元禄15年(1702)には三ノ丸に対面所が建てられ、居館の機能は完全に平地へと移っている。これには、山からの湿気が多いという理由があったらしい。実際に主郭部東側に大きな排水路があるほか、石垣にも排水設備がいくつも見られ、山からの水の処理に腐心していたことが窺える。

苔むした野面積の石垣

 全体としては、政庁を兼ねた近世城郭という感じで、防御力よりも政庁としての機能性を優先しているのは明白だが、それでも各街道筋には砦にもなる寺院を配しているほか、南東には有子山の山塊が迫っており、決して防御力が低いといういわけではない。また、有子山の旧城は遺構をよく残しているが、これは修築すれば詰に使えるということも視野に入っていたと思われ、積極的に破却せず意識的に朽ちるに任せたのではないだろうか。

 現地で城を見上げてみると、同じように山上から麓へ主郭部を持ってきた鳥取城に雰囲気がよく似ている。石高で比較すると、32万石の鳥取城に対して5万石程度の出石城では大きな差があるが、城の規模で見ると石高ほどの差は無い。つまり、出石城が石高の割に規模が大きかったと言えるのだろう。城の中で特徴的なのは稲荷丸で、本丸の上にあるという立地もさることながら、江戸時代でも自由に参詣できたというから驚きで、平和な時代の城であることの象徴のような存在である。

二ノ丸

 城の廃城は早く、維新早々の明治元年に藩主自ら新政府の政策に恭順の姿勢を示す為に廃されているのだが、石垣の保存状態は良く、現在では本丸の隅櫓が2棟建てられているほか、登城橋や城門なども復元され、昔に比べてずっと城らしい雰囲気になった。城の付近には、明治4年に建設されて城下町に時を伝えた辰鼓楼という時計台を始め、前述した出石そばの店や古い城下町などがあり、ぶらっと散策するのには最適な雰囲気だ。15年ほど前に来た時にはそれほど観光地然としておらず、そのイメージを持って改めて訪れてみると、かなり変わっていて驚いたが、この城下町の雰囲気がやはり人気なのだろう。

 

最終訪問日:2011/10/30

 

 

出石そばと辰鼓楼で有名な出石の城です。

それにしても、ポスターやツアーパンフレットなどでよく目にすると思っていたら、これほどの観光地になっていたとは。

観光客が多く訪れ、整備された城や城下町も良いんですが、かつての静かな古城の雰囲気も懐かしく、一抹の寂しさを感じてしまうのも不思議ではありますね。