Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

魚住城

魚住城の説明板

 室町時代から戦国時代にかけて、東播磨に勢力を持っていた豪族魚住氏の居城。

 魚住城と呼ばれるものとしては、ここから少し西にある中尾という地に、魚住長範が居館を構えたのが最初という。

 魚住氏は、御着を本拠としていた赤松庶流小寺氏の分かれとされ、南北朝時代の文和年間(1352-56)に、赤松氏の配下として長範が武功を立てたことが史料に見える。以降、山名氏が没落した明徳2年(1391)の明徳の乱、赤松家当主満祐が将軍義教を討って討伐された嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱、そして応仁元年(1467)から始まる応仁の乱と、一貫して赤松氏の下知に従っていた。

 だが、赤松氏の勢力が後退した戦国時代には、当主頼治とその子吉治は東播磨8郡の守護代となった別所氏の影響下にあったようで、三木合戦でも別所氏に味方している。そして合戦に備える為、西南方向に海を控え、東は赤根川を堀として使えるこの台地へ、天正6年(1578)に新たに築城し、毛利氏からの援助物資をこの地で陸揚げして三木城まで運んだという。三木城を囲む秀吉軍から、城内に活きの良い明石鯛が見えたという逸話も残っているが、結局はこの魚住からの補給ルートも潰され、干殺しとまでいわれた壮絶な籠城戦を経て、別所氏は天正8年(1580)1月に三木城を開城し、滅んだ。

 この時、魚住城は放棄されたとも落城したとも伝わっており、魚住氏のその後の消息は判らなくなるのだが、食料補給の指揮を執った魚住家臣の卜部安知は、実際に作業に従事した住民多数と共に秀吉に処刑されたといわれている。だが、安知の子は難を逃れてしばらく身を隠し、豊臣氏が滅んで徳川氏の世となってからこの地に戻り、造り酒屋を営んだ。それが今も残る江井ヶ嶋酒造で、魚住城以外では戦国時代と現在を繋いでいる唯一のものといえるのかもしれない。

 現在、城跡は住宅地として開発されて遺構は全く残っていないが、跡地とされる場所は海からほど近い場所にある小高い丘で、この地形を利用しつつ土塁を少し掻き揚げただけの小城だったかと思われる。付近には居屋敷という地名もあるが、縄張を想像するのは難しい。

 

最終訪問日:2002/10/13

 

 

魚住城の存在を知ったのは小学校3年の時でした。

バイクを手に入れてから、小学校の時の記憶を辿りつつ訪れたことがあったんですが、その時は城跡の痕跡を残しているとはいえなかったものの、草原のような茫漠とした場所だったように記憶しています。

それが、10年ほど経って再び訪れてみると、全くの宅地となってしまっているのに驚きました。

僅かに残っていたかもしれない遺構も、残念ながら完全に消滅したんでしょうね。

史跡の案内表示も建て替えられ、真新しい小さな公園の隅に、これまた真新しい黒い文字で記された白い案内板が、やたら印象に残りました。