Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

淡河城

天守台にある淡河城城址

 国人淡河氏累代の居城。

 淡河氏は鎌倉幕府執権の北条氏の裔で、承久の乱後の整理で承久4年(1222)に右近将監成正が地頭職となり、子孫が地名から淡河を称したという。また、一説には、地頭となったのは北条時政の孫時盛の子である朝盛ともいわれる。

 鎌倉時代末期から建武期にかけての淡河氏の動向ははっきりとしないが、南北朝時代初頭には南朝方に属していたようで、淡河城で建武3年(1336)や暦応2年(1339)に合戦があったという。特に暦応2年の戦いでは、赤松円心則村の三男則祐率いる赤松軍によって淡河城が落城し、周囲一帯は赤松氏の支配となった。だが、以降も淡河氏が勢力を保っていることを考えれば、恐らくどこかの時点で赤松氏に降伏して武家方に転じたと思われる。

淡河城縄張図

 その後、南北朝合一が成り、子のなかった範清の時に赤松一族から季範を迎え、淡河氏は赤松氏の東の藩屏となった。嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱では、季範の子則政は幕府軍に抵抗するもやがて降伏し、山名家に属して家名を保ったが、赤松政則が赤松家を再興すると、則政の子政盛は再び赤松氏に属し、さらにその子則盛の時に再び赤松一族から娘婿として元範を迎えた。だが、戦国時代には赤松氏が守護としての力を失い、その守護代として力を伸ばしてきた三木城の別所氏に従っている。

 この元範の晩年と思われるが、淡河城は天文23年(1554)に別所氏と対立していた有馬重則の要請で出兵してきた三好勢に攻撃され、城は落城した。その後、別所氏は三好長慶に属して活動しており、恐らく淡河氏も同様に三好氏の下知に従っていたと思われ、その功が認められたのか、それとも自力で武力を用いて奪回したのか、弘治年間(1555-58)か永禄年間(1558-70)の初期には淡河城に復帰している。また、これと同時期に、江見氏から定範が養子として迎えられた。

麓から見ることのできる模擬櫓

 別所氏は、長慶死後の三好家中の混乱と信長の上洛によって三好氏の影響下から脱し、東播の支配を確立したが、元亀元年(1570)に当主安治が死去した為、若年の長治が家督を継いだ。定範は、安治の妹を娶っており、長治の義理の叔父として後見役のひとりになったという。

 当初、別所氏は信長と通じ、秀吉の播磨平定に協力したが、後に袂を分かって毛利方に転じ、いよいよ干殺しとまで呼ばれた秀吉による三木合戦が始まるのだが、この合戦で淡河城は、花隈城から丹生山、そして淡河城を経由して三木へ糧食を運ぶラインを担った重要な補給拠点であった。

竹慶寺跡から内堀と天守

 補給路を潰してしまいたい秀吉は、弟秀長に命じて天正7年(1579)にこの城を攻撃させたが、定範は逆茂木や車菱で秀長軍を足止めし、そこに集めていた牝馬を放って軍馬を混乱に陥れ、さらに兵を突出させて見事撃退している。しかし、定範は淡河城では大軍を支えられないと悟った為、自ら城を焼いて6月には三木城へ移り、同年9月10日の攻防戦で討死した。

 戦後、淡河城は有馬則頼に与えられてその居城となり、後に1万5千石に加増されたが、則頼は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後に、かつての本拠である三田を含む2万石に加増された為、則頼は三田に新城を築城して淡河城を廃している。そして、その後も空城として何らかの設備が残っていたようだが、元和元年(1615)の一国一城令で破却された。

公園の案内図

 城は、淡河川と丹生山系から流れ出る川を堀として、その合流点付近の数10mの崖上という要害の地にある。現在は、本丸が果樹園、本丸次段が畑となりつつ遺構を残しているほかは、中郭以下のその他の郭に城の痕跡は見られない。崖上の平坦な地形であるが故に、開拓しやすかったのだろう。ただ、本丸の周辺には、周囲を巡っている内堀が旧状をよく残しているほか、本丸に土塁の跡も見られ、その一角には天守台も健在だった。この天守台には城址碑があり、同じく鎮座している社では、若干ながら縄張図などの淡河城の資料を確認することができる。他には、本丸から堀を隔てて南東側に淡河氏の菩提寺であった竹慶寺の跡があり、歴代の城主の墓が白壁の塀に囲まれてひっそりと佇んでいた。

中郭跡の農地から本丸方向

 

最終訪問日:2019/5/5

 

 

三木合戦では、見どころのひとつとなった城です。

現在は、崖下の道の駅淡河から見ると、模擬の櫓と看板が目立っていて分りやすいですね。

登城の際は、道の駅がそのまま駐車場としても使えて便利です。

ただし、駐車場はいつもいっぱいなので、注意が必要。

江戸時代の淡河は宿場町で本陣もあっとは言え、今は田舎の小さな集落なんですが、豊助饅頭と十割そばで、実は神戸では結構有名なんです。

ドライブの目的地として、ちょうどいい距離なんでしょうね。