Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

柏原陣屋

 織田家とゆかりの深い、江戸時代の柏原藩の政庁跡。

 柏原の地には、信長の異母弟である信包が慶長3年(1598)に入封し、これによって江戸時代の柏原藩の前身が成立した。

 この信包は、清廉潔白な人柄で信長からの信頼も厚く、一族の重鎮的な存在であったという。天正10年(1582)の本能寺の変後は秀吉に従ったが、後に怒りを買って出家し、老犬斎と名乗った。その出家後に得たのがこの柏原で、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で信包は西軍に与して細川幽斎の田辺城を攻撃するのだが、その人柄が幸いしたのか、織田家という家柄が幸いしたのか、領地は安堵されている。

 しかし、この信包系の織田家は、3代で後嗣がない為に断絶してしまい、その後、柏原は旗本の領地となっていたが、元禄8年(1695)に大和の大宇陀から信長の次男である信雄の子孫信休が入部し、再び柏原は織田家所縁の地となって明治維新まで続いた。だが、移封の原因が信休の父信武が起こした宇陀騒動にあったように、こういう騒動の体質は遺伝するのか、柏原に移ってからもお家騒動や財政窮乏に悩み、藩政はなかなか安定しなかったようだ。

 この陣屋自体は、入部から約20年も経った正徳4年(1714)に築かれたのだが、御殿は文化13年(1816)に火災に遭い、再建した御殿は明治6年(1873)の廃城令後に校舎として使われた。現在残っている御殿は、校舎の拡張等で建て替えられたり取り壊された部分を除いた一部なのだが、現存する陣屋御殿として貴重なものであり、長屋門は創建当時のものが現存している。

 現在の陣屋の跡地は、前述の崇広小学校の敷地となっており、御殿と長屋門しか当時を偲ぶものは無いが、再利用しやすい平地の陣屋というのを考えると、建物などが残っているのは幸運と言えるのだろう。また、市街にも武家屋敷や移築された太鼓櫓があり、城下町の趣が残る街並みを散策すると、小藩の城下らしいゆったりとした気分になる。

 

最終訪問日:2000/11/18

 

 

不思議と織田家に縁のあった柏原の陣屋。

実は、個人的な事ながら、母の実家の先祖が柏原藩の織田家と能か狂言かで縁があり、織田木瓜の瓜輪の部分だけを拝領したとかで、家紋に瓜輪が付いています。

それだけのことなんですが、訪れた時は、なんとなく感慨深かったですね。

ま、それだけのことなんですけどね。