Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

瓦林城

日野神社参道にある瓦林城址碑

 城は、瓦林とも河原林とも書くが、周辺地形を見ても解るように武庫川の河原で、河原林のほうが最初の表記だったと思われる。

 この城は、その名前から一帯の豪族瓦林(河原林)氏の累代の居城であったかのように思われるが、文献上の初出は建武政権期の建武3年(1336)で、建武政権から離脱した尊氏に与する有馬郡の豪族貴志義氏が、摂津各地を転戦する中で4月に立て籠もったとあり、瓦林氏の影は見られない。この出来事は、湊川の戦いの前月の事であり、義氏は北朝方の赤松氏の指揮下にあって、九州から東上してくる尊氏の為の足場作りの役目があったのだろう。一般には、この義氏が瓦林城を築いたとされるが、史料に築いたとの記述はない為、新城を築いたのか、それまであった城に籠もったのかは、実際のところ不明である。

 この頃の瓦林氏の動向としては、同時期に元定なる人物が和泉国塩穴荘の地頭職に任ぜられている事が見えるが、瓦林城や瓦林郷のことは出てこない。また、この文書には貴良荘との替地という文言があり、瓦林氏が三河出身という類推する説もあるのだが、それ以上は不詳である。領した地名から姓を取る事は日常茶飯事で、逆に越後村上城のように領主の姓から城名や地名が付く場合もあるのだが、瓦林城と瓦林氏は、史料上では繋がりが見られないのに、同時期に同名で出てくるのは不自然で、やはり瓦林氏の本貫は瓦林郷だったと素直に考えるのが妥当なのだろうか。

 ちなみに、信憑性は低いながら、頼朝が寿永3年(1184)に城からやや南の小松荘の下司職に任命した源光清が瓦林氏の祖という説もあり、伝承レベルになるとようやく城の近辺との繋がりが出てくる。もしかすると、鎌倉末期の元弘の乱から建武政権期への流れの中で、瓦林氏は時勢を見誤って本貫地を失ってしまったのかも知れない。

 その後、日野神社の社伝によれば、瓦林弾正左衛門が城内の鎮守として康安年間(1361-62)に神社を建立したとあり、この頃には城は瓦林氏の手にあったようだ。その後、再び瓦林城の事跡は不明となり、時代の下った戦国時代に、細川家惣領の家督争いである両細川の乱の一方の主役細川高国の家臣として、瓦林正頼が登場してくる。

 正頼は、この瓦林城を本拠とし、高国と同じく細川政元の養子として家督を争うもう一方の主役細川澄元の攻勢に備え、永正8年(1511)に芦屋へ鷹尾城を築いた。しかし、実家阿波細川家の支援を受けて摂津に上陸した澄元勢の第一波を退けたものの、澄元方の援軍である赤松軍によって鷹尾城は陥落し、正頼も落去したという。この赤松軍の侵攻は、伊丹城まで達している為、おそらくこの瓦林城も落とされたか正頼が放棄したと思われる。だがこの直後、澄元が擁していた前将軍足利義澄が病没し、船岡山の合戦で澄元方が敗れた為、高国方が勢力を盛り返し、瓦林城も正頼の手に戻ったようだ。そして、永正13年(1516)に正頼は越水城を築いて移った為、瓦林城はその支城になったという。

 正頼は、永正16年(1519)に澄元の反攻で越水城を包囲され、翌年には城を開城して落去しているが、後に高国方の反攻の際に堺から海上を封鎖したといわれ、越水城退去時には恐らく瓦林城も捨て置かれたと思われる。この直後、正頼は高国から内通を疑われて切腹させられているが、瓦林城やその領地がどうなったかはよく分からない。

 この後、城の動向は不明となり、澄元の遺児晴元の上洛と堺公方の成立、大物崩れによる高国の自刃など、摂津で幾度も戦いが繰り広げられ、天文2年(1533)に一向衆と結んだ瓦林一党が晴元家臣の三好氏が持つ越水城を攻め、一時的に奪ったことが見える。この時、瓦林一党が瓦林城を拠点としていたかなどの城の動向は相変わらず不明だが、瓦林氏は没落せずに勢力を保っていたようだ。また、晴元と三好元長の対立では、瓦林一党は晴元側にあったことが知れる。

 この争奪戦の後、元長の嫡子長慶が台頭し、やがて晴元を追って三好政権を確立するのだが、その過程で同族の三好政長を天文18年(1549)に江口城の戦いで滅ぼした際、政長の子宗渭政康(政勝)が瓦林城に退避したという。恐らくは、晴元側であった瓦林一党が、落去した政勝を城に迎え入れたと考えられる。

 この後に登場してくるのが瓦林三河守で、永禄年間(1558-69)中頃に越水城に在ったようだ。長慶没後の三好三人衆松永久秀の対立では、三河守は久秀側に与し、篠原長房の守る越水城を幾度か攻撃しているが、一貫して西宮での活動が見られることから、瓦林城がその拠点になっていたのだろう。しかし、元亀元年(1570)9月28日の長房の瓦林城急襲によって三河守を始めとする一族多数が討たれ、瓦林氏は滅んだ。そして、城も廃城になったという。

 城は、武庫川西岸の平地にあり、居館に近い形で、防御力はあまりなかったと推測されている。確かに、東の武庫川以外は西に幾筋か小川があるのみで、天然地形による防御力はほとんど期待できない場所だ。具体的な城跡は、日野神社の社殿から現在の日野神社境内周辺だったとされるが、確証は無く、あくまで推定地で、正頼の墓や三河守の位牌があるという500mほど南西の極楽寺辺りだったという説もある。ただ、どちらにしても市街地化してしまっており、城があったと聞かなければ城跡と想像することも難しい。

 日野神社周辺を歩いてみると、境内の周りには小さな水堀があり、一部土塁跡のように盛り上がった部分もあるので、思わず色めき立ってしまうのだが、これも後世に造られたものがどうかの検証すらされていないのではないだろうか。市街化で発掘調査すら困難な現状では、城地を比定するのすら困難で、今後も期待できず、少し残念ではある。

 

最終訪問日:2013/4/10

 

 

市街地にある閑静な日野神社の境内が、城跡推定地です。

そう、推定地。

戦国時代前期の摂津では戦いが多く、史料にも結構出てくる城なんですが、残念なことに、はっきりとした場所は不明なんですよね。