Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

篠山城

篠山城鳥瞰図

 京に隣接する丹波国は、西国と京を結ぶ重要な位置にあり、時の勢力から常に重要視されていた。その証拠に、鎌倉時代には北条氏が守護を継承したと考えられ、南北朝時代から室町時代にかけては、山名氏や細川氏といった幕府の有力大名が守護となっている。

 篠山盆地周辺は、亀岡などと共に中世より丹波の中心的な地域であり、戦国時代末期には、細川家中から身を起こしたとされる波多野氏が、盆地の東端にある八上城を本拠として丹波一国の覇権を確立したが、やがて中央を制した織田氏によって滅ぼされた。

 波多野氏が滅亡した後も、八上城は篠山盆地の主城として機能していたが、慶長13年(1608)に入部した松井松平康重は、家康の意向もあって翌同14年(1609)には新城の築城に取り掛かる。これが篠山城で、縄張は築城の名手藤堂高虎が担当し、西国大名に命じて延べ8万人を動員した天下普請として行われ、僅か1年足らずで完成した。

 城がある笹山は、篠山盆地の中央にポッコリと盛り上がっており、平野部を押さえる築城地としては絶好の場所だろう。戦国時代にも小城か砦のような軍事施設はあったようで、史料にも僅かながら笹山という名が見えるが、その当時は防御力を考えた山城全盛の時代であり、主城とはなり得なかった。

 だが、家康は、篠山盆地を京都の山陰口とする伝統的な見方ではなく、当時健在だった大坂の豊臣家に対する楔として西国と大坂を分断する要衝と見、堅牢で、しかも治所となる城を笹山に築いた。現在でも、国道173号線、176号線が大阪へ通じ、372号線は亀岡を通じて京都に繋がるという篠山盆地の交通事情は当時と変わらず、ここに築城することの重要性を感じ取れる。

 豊臣家が滅亡し、家康が没した後も、経済の中心で将軍家直轄の城がある大坂と、朝廷のある京に通じる要衝として、家康時代と変わらず幕府は重要視したようで、康重の後は藤井松平、形原松平と親藩が続き、そして譜代の青山家が維新まで続いた。ちなみに東京の青山は、この青山家の藩邸が地名として残ったものである。

 維新後、明治6年(1873)の廃城令で城の建物は民間に払い下げられるなどして撤去されたが、一大名の御殿としては似つかわしくないほど大きかった大書院は、撤去費用もかさむことから残され、学校に使われるなどしていた。しかし、残念ながら昭和になって火災で焼失してしまい、現在は平成になって復元されたものが二ノ丸跡にある。

 その他の建造物としては、城門の一部が城の北に移されて保存されているぐらいだが、石垣や二重の堀はほぼ完全な形で残っており、特に馬出しが残っているのは珍しい。馬出しとは、その名の通り馬を出す、つまり出撃する際の拠点となる空間で、門の外に張り出すように確保され、兵力の集中と編成を行う場所である。また、城が敵の前線と最初に接する場所でもある為、広い視野を確保した銃撃拠点でもあった。構造としては近世城郭によく見られるのだが、城から張り出した造りである為、市街化する時に堀と一緒に整地されるなど、城は残っていても馬出しは無くなっている場合が多い。だが、篠山城には、馬出しが東と南にほぼ完全な形で残り、また、それぞれ石垣と土塁という構造の違いもあって、2つとも見て回る価値がある。

 城の構造を見ると、規模は巨大というわけではないものの笹山という小山を利用した平山城で、天守台のある本丸とそれに続く二ノ丸、そしてその主要な2郭を囲う三ノ丸に二重の堀という典型的な近世城郭の構造を持ち、3つの門には馬出しを設けて防御力を上げると共に討って出る際の出撃拠点を確保していた。城には一応、天守台が設けられていたが、城が堅牢になり過ぎる為に家康が天守閣を許さなかったともいわれ、最後まで建てられることはなかったようだ。また、城下町は八上城の城下町を移し、近世城下町として再編成している。

 外堀と内堀の間にあった三ノ丸は、埋立てや削平などで地形を変えることなく、広大な郭を有効に利用して今では学校やグラウンドとなっていた。城好きとしては、形がきっちり残っているので、とてもありがたい。また、外堀の外側には武家屋敷や商家群など、未だ江戸時代の面影を残す町並みが広がり、丹波名物の黒豆アイスなどを味わいながら、のんびりと散策するにはうってつけである。

 

最終訪問日:2000/5/12

 

 

黒豆で有名な丹波の城で、雰囲気の残る城下町も観光地として有名ですね。

城好きとしては、綺麗に残っている馬出が特に見所でしょう。

ただ、黒豆が収穫される秋は周辺が大渋滞となるので、要注意!