Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

細工所城

細工所城の麓にある説明板

 丹波の豪族荒木氏の居城で、荒木城ともいう。

 荒木氏の出自には諸説があり、藤原利仁流や同じく秀郷流などの説が伝わる。また、同じく秀郷流との説もある波多野氏の一族という伝承もあり、定説を見ない。また、これに連動して名字の地にも複数の説があり、志摩国荒木郷や丹波国天田郡荒木という地名が伝わる。ちみなに、信長の配下として頭角を現した荒木村重も、この地と摂津池田が街道一本で繋がることから同族であった可能性が高いが、村重の出自には、志摩の伊勢神宮神官荒木田氏という説もあるという。

 荒木氏の事跡を辿ると、南北朝時代にはその動向が見え、系図からは歴代の丹波守護に仕えていたと推測され、丹波守護職細川氏によって世襲されるようになると、それまでと同様に細川氏の配下として活動したようだ。両細川の乱の最中である大永7年(1527)の桂川の合戦では、細川高国側として討死した荒木姓の武将が確認できる。ただ、この人物の名は戦国時代中後期の当主とされる氏綱とも伝わっており、各系図類には異同や混乱が見られるようだ。

細工所城本丸

 その後、荒木氏は、氏綱が天文年間(1532-55)にこの城を築き、細川家臣から実力を伸ばした八上城の波多野氏に従い、自らも篠山盆地東部から三国岳の裏側である園部にまで勢力を拡大した。園部には氏綱の子という久左衛門氏兼の制札が残されており、その日付である天正3年(1575)に園部一帯を支配していたのは確実である。

 その後、中央を制した信長の部将明智光秀による丹波征討が開始され、天正5年(1577)の冬に丹波の入口である籾井城が落ち、翌年にはすぐ北西の細工所城にも織田軍が迫った。氏綱は徹底して抗戦したが、織田軍は付城を築いて城内に鉄砲を撃ち掛け、やがて水の手を押さえた為、氏綱は翌年に降伏したという。

本丸北側の削平地とかなり高低差のある本丸と切岸

 氏綱の武勇を買っていた光秀は、氏綱に出仕するよう命じたが、氏綱は病身を理由に辞退し、代わって子氏清を光秀に仕えさせた。氏清は、本能寺の変から続く一連の戦いで討死したという。

 城は、麓に居館を持っていたと思われる中世的な山城で、主郭部は東西に大きく4段確認でき、本丸は3方向の峰筋を削平した平たい半三角状の形で、それぞれやや下がって東に1段、西に2段を擁している。これとは別に北側に高低差を持った2段の削平地があり、この方向の本丸からの切岸は相当鋭い。

 主郭部東側は崖で、峰が続く東南方向には堀切と土橋で区切った先に細長い段郭があった。また、これと同じような形で、北西方向の峰筋にも細長い郭がある。

 麓の居館跡と思しき場所から繋がる南西方向には、高低差のある切岸を経て削平地が2ヶ所あり、そこから更に下がった中腹に段郭が連続していた。この辺りは、大手らしい重厚な構造が窺える。

本丸東から南方向の段郭との動線を遮断する堀切と土橋

 また、本来的な城の範囲からは外れるが、登山道入ってすぐの所に、主郭部への方向を堀切と土塁で断ち切った、下段がかなり広い2段の出丸のような削平地があり、細工所砦と呼ばれているようだ。ここは、館跡とも織田軍攻城時の付城跡ともいわれるが、主郭部方向から見れば内部が筒抜けとなるような高低の位置関係である上、近過ぎることもあり、前述したように往時は居館があった場所かと思われる。

 籠城戦の推移を考えると、ここまで主郭部に近い位置に戦線を前進させるのが可能なのは、籠城勢力が沈黙しつつある攻城末期であり、その優勢な状況でこれほど巨大な郭を造成する必要性もなく、また、敵から見下すことができる危険な場所で構築作業をするのも考えにくい。付城の伝承の元は、攻城の過程で居館を橋頭堡として使った程度の話ではないだろうか。

麓の居館跡と思われる削平地と主郭部との尾根筋にある堀切

 城は、国道173号線の丹波細工所交差点の東にある集落の後背にあり、国道から説明板が見えるほか、集落から出ている登山道入口まで案内があって分かりやすい。登山道は、急峻な場所もあるが、麓の細工所砦や段郭を含め平坦な場所も多く、登るのにそれほど苦労はしないだろう。頂上の主郭部は、木々が切られて遺構がしっかり確認できるようになっており、散策しやすかった。ただ、主郭部や道中にベンチ等の休憩施設は整っていない為、その辺りは少し心構えが必要かもしれない。

 

最終訪問日:2017/11/5

 

 

何度か場所の確認だけはしていて、訪れるタイミングが無いままでしたが、台風でロングツーリングがダメになった口惜しさを、細工所城にぶつけました。

遺構が明確に残っていて、規模もなかなか大きく、あれこれ想像しながら散策が楽しいお城ですね。