Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

庄山城

 室町幕府草創の功臣赤松円心則村の次男貞範は、本拠として姫路城の前身となる姫山城を築いたが、やがて貞和5年(1349)にこの城を築いて移り、姫山城は小寺頼季に守らせた。これが庄山城の始まりである。時代背景としては、尊氏の弟直義と足利家執事の高師直が対立し、直義が失脚した年で、それは翌年の観応の擾乱の勃発へと繋がるのだが、姫山城からより防備が期待できる庄山へと城を移したのには、そのような不穏な情勢が影響したのかもしれない。

 築城者である貞範は、後に丹波国春日部荘を領して春日部家を立て、この庄山城も所領としたようだ。貞範の没後は、嫡子顕則が家と共に庄山城を継ぎ、その子らは、将軍義持の寵臣で後に密通を問われて自殺した持貞のほか、満貞などがいる。この辺りの系図については複数の説があり、満貞の父は顕則の弟頼則であったという説もあるのだが、それはともかくとして、この満貞の子が嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱における重要人物となった貞村で、持貞没後に春日部家を継ぎ、庄山城も引き続き所領としていたようだ。

庄山城案内版

 この当時の将軍はくじで選ばれた義教で、義教は貞村を寵愛しており、いずれは赤松の惣領を満祐から奪って貞村に与えるという噂があった。そこで満祐は先手を打って義教を館に招いて暗殺し、そのまま京を引き払って播磨へ帰国したのである。帰国した満祐は、野に在った足利義高尊を擁立して兵を挙げたのだが、幕府が諸大名を動員して討伐軍を発すると、衆寡敵せず戦いに敗れ、赤松氏の一族家臣のほとんどは没落した。これが嘉吉の乱であるが、この乱において貞村は討伐軍の一手の大将を務めている。

 戦後、赤松氏討伐で功を挙げた山名氏が播磨守護となり、庄山城も山名氏の属城となったが、赤松家は満祐の弟の孫政則の時に再興され、応仁元年(1467)から足掛け11年に渡る応仁の乱の際に播磨を奪回した。その後、庄山城には、姫路の小寺氏の一族である小寺康職や祐職の名が見え、祐職は守護赤松義村守護代浦上村宗の対立の際、義村側に与して永正17年(1520)に美作岩屋城を攻撃したものの、浦上家臣宇喜多能家に敗れて討死している。そして、代わって城に入った当主の小寺政隆も、細川家の家督争いの余波で享禄3年(1530)に敵陣営の村宗に攻撃されて討死し、城も落城した。

 政隆の子則職は、後に晴政と名乗る赤松政村を擁して細川晴元方に与し、細川高国方の村宗と摂津で戦った末、敗死に追い込んで勢力を回復したが、庄山城へは入らず、御着城を本拠としている。そして、この庄山城は家臣の長浜長秋に任せたという。

庄山の遠景

 その後は小寺氏の支配が続いたと思われるが、永禄12年(1569)に織田軍が播磨に出兵し、庄山城を落城させたというのが史料にあり、元亀年間(1570-73)には別所重棟が城を治めていたともある。重棟は別所一族の中でも中央と繋がりがあり、義昭に従って戦ったこともあるので、その関係で庄山城を得たのかもしれない。

 天正6年(1578)から同8年(1580)にかけての秀吉の播磨平定で小寺氏が滅んだ後は、黒田官兵衛孝高の子長興が入ったともいわれるが、詳細は不明で、廃城となった時期もよく分らなかった。恐らく、秀吉が本拠とした姫路城に近いことから、播磨平定後の天正9年(1581)の城割りで廃城になったのではないだろうか。

 城は、谷外小学校の北にある標高194mの城山山頂から山腹一帯にかけて構築され、東西500mに渡って連続する稜線上に置かれた主郭部を中心に、西に出丸を、東と南に延びる尾根に複数の郭を配した構造であった。地形的には、山の南は比較的緩やかな勾配で、後背にあたる北側には急峻な地形と山地が続いている。江戸時代の地誌には、庄や豊国という集落が南に幾つかあったことが記され、これらは城下を形成していた名残ではないだろうか。

 現在の城跡には、山頂から山腹にかけて石垣、土塁、堀切二本、井戸二基、木戸跡等が残っているらしいのだが、周辺に城へと向かう登山道が見つからなかった。現地の略図によると、小学校付近に大手道があるはずなのだが、現在も残っているかは不明である。

 

最終訪問日:2008/6/11

 

 

1回目に訪れた時には、案内板はすぐ見つかったのに、周辺をいくら探しても城への登山道が見つかりませんでした。

2度目に来た時は、地元の人にも聞いたんですが、地元の人の分からず。

なかなか手強い城ですね。

リベンジするべし。