Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

白巣城

 安宅氏の庶流が拠点とした淡路最大級の山城で、シラスと読み、地名から三野畑城とも呼ばれる。

 熊野水軍の一派であった紀伊国日置川の豪族安宅頼藤が、観応元年(1350)に将軍足利義詮の依頼によって海賊退治の為に淡路に入部した後、由良城を本城として島内7ヶ所に支城を築き、一門を配した。それが後に安宅八家衆と呼ばれる一門衆となるのだが、この白巣城は、戦国時代にその八家衆のひとつに数えられた安宅冬秀の居城である。

 白巣城の事跡はほとんど分かっておらず、通説では室町時代末期に安宅氏によって築かれたという。つまり、初期の八家衆の拠点ではなかった訳だが、このような山城への移転は、安宅氏支配の島内奥部への浸透と、陸上勢力への変質という側面があったと思われる。

白巣城鳥瞰図

白巣城説明板

 前述の頼藤は、当然の事ながら当初は北朝方として入部したわけだが、一時は南朝に転じたこともありつつ、その子孫は淡路守護細川氏に従っていた。中央では、応仁元年(1467)の応仁の乱で細川家の惣領細川勝元が一方の大将になるなど、仕えていた細川氏一門が権力闘争を勝ち抜き、勝元の子政元が幕府随一の権力者となっていく。しかし、政元には子がなく、澄之、澄元、高国の3人の養子を迎えた所から、細川氏の壮絶な内訌が始まるのである。

 永正4年(1507)、政元が澄之派の家臣に暗殺されたことで家督争いが本格的に始まり、澄之が一時的に家督を継いだものの、すぐさま高国の協力を得た澄元が澄之を滅ぼし、更に政元に追われていた前将軍足利義尹(義稙)が大内氏の支援を得て上陸すると、今度は高国が澄元側から離反した。これら一連の騒乱を永正の錯乱といい、特に澄元と高国の抗争は両細川の乱と呼ばれ、争いは約20年に渡って続くのだが、この頃の淡路守護細川尚春は、阿波細川家出身の澄元に概ね味方し、永正11年(1508)に主力軍のひとつとして芦屋浜で高国軍と戦うなどしている。しかし、同年の船岡山の合戦で澄元軍の主力が敗れると、淡路に撤退して高国と和した。

西ノ丸にある城址

西ノ丸直下から本丸方向

 だが、これによって澄元軍の上洛経路上の淡路が反対に狙われることとなり、永正14年(1517)に澄元の家臣三好之長が淡路に侵攻して尚春は追われ、淡路は実質的に三好氏の影響下に入ることとなる。三好長慶の弟冬康が安宅家へ養子に入るのも、この延長線上の話で、白巣城主安宅冬秀はその諱から、冬康の縁者か、安宅一門で冬康から偏諱を受けた者だろう。

 安宅氏の養子となった冬康は、淡路水軍を率いて兄長慶の政権樹立を支え、基盤となる阿波と中央の間を結ぶ淡路やその近海を治めた。しかし、永禄7年(1564)には、冬康は長慶によって切腹させられてしまっている。これは、三好家臣松永久秀による讒言が主因だったとも、直後に病没した長慶の病による精神錯乱が原因だったともいう。

 この後、家督は子信康が継ぎ、永禄11年(1568)の信長上洛に対抗したが、後に信長に降伏し、木津川河口の合戦では毛利軍と戦っている。そして、信康の病没後はその弟清康が家督を継承し、引き続き織田水軍の一翼を担ったが、後に毛利家に内応した為、天正9年(1581)に織田家羽柴秀吉軍の攻撃を受けて洲本城を開城し、淡路における安宅氏の支配は終焉を迎えた。

本丸

馬繋場の下段と僅かに残る土塁

 白巣城の事跡として残っているのは、この時の落城の際の話で、本城洲本城の開城によって他の城主も皆降伏したが、冬秀のみは従わず、城に籠城したという。冬秀は、寄手が登り難いように滑る竹の皮を通路の坂に敷いたのだが、秀吉軍はこれに火を放ち、城を火攻めにしたようだ。そして、落城を悟った冬秀は潔く火中に身を投じ、自害したと伝えられている。この後の城の事跡は不詳であることから、恐らく火攻めで荒廃した城はそのまま放棄され、廃城になったのだろう。

 城は、最高部の楕円形の本丸を中心に、北西と北東に長く伸びる峰筋に西ノ丸と東ノ丸を中心とする幾つかの郭を配した城で、典型的な中世山城である。また、淡路島の中世山城としては、最大級の規模という。

見晴らしの良い東ノ丸

馬責場の最高部から突端の削平地

 構造を詳しく見ると、本丸の周囲は北東から西に掛けて削平地が広がり、東の部分は2段構造の馬繋場として明確に土塁も残っているが、本丸の南側は小さな段郭とその先の堀切がある程度で、崖という自然地形の防御力に頼っていた。また、馬繋場には僅かに石積みが残るが、これは後世に社か何かを設置した際に造ったような雰囲気がある。本丸から西は、西ノ丸との間にかなり広い削平地を設けており、ここに何らかの居住空間があったのかもしれない。本丸よりやや低い程度のピークとなっている西ノ丸は本丸と同程度の大きさで、峰筋には立岩という巨岩を挟んで馬責場という3段の郭があるが、ここはかなり突出しており、見張台の役目があったのだろう。本丸の北東側に目を向けると、米蔵や2筋の堀切を挟んで東ノ丸があり、その先にもやや下って削平地がある。この先は細い峰筋の道となっており、往時は登城道のひとつだったのかもしれない。

 城へは、神陽台の住宅団地の東南から山へ向かう道が出ており、案内も細かく、迷うことは無いだろう。鳥獣被害防止用の柵を抜けると、非常に急な山道となるが、終着点には立派な舗装駐車スペースが用意されている。このように、城全体として非常に整備されており、散策もし易く、遺構や縄張も明確で解りやすい。淡路島では、石垣の城なら三熊山の洲本城、土の城なら白巣城をまず見ておくべきと言えるほどの良い城である。

 

最終訪問日:2016/3/16

 

 

1度目の訪問では、車道を塞ぐ倒木に遮られ、止む無く登城を断念しました。

台風襲来翌日だったのが良くなかったですね・・・

城内は、下草も綺麗に刈られ、木々も切られていて、遺構が物凄くはっきりよく判る素晴らしいお城でした。

城好きの人はもちろん、大してお城に興味が無い人にもお勧めです!