Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

竹田城

 別名虎臥城とも呼び、但馬以下数ヶ国の守護を兼ねて室町幕府内で絶大な勢力を誇った山名宗全こと持豊が、室町時代中期の永享3年(1431)に播磨から但馬へ通じる街道の抑えとして築いた山城で、足掛け13年かけて嘉吉3年(1443)に完成したといわれる。また、一説に嘉吉年間(1441-44)に安井ノ城として築かれたともいう。

 赤松満祐が将軍義教を謀殺して討伐された嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱において、城下を通る街道筋から播磨に侵攻して赤松氏討伐に功を挙げた宗全は、赤松旧領の守護職をも得て勢力を強め、山名四天王に数えられる有力家臣太田垣光景にこの城の守備を命じた。それは、隣接する赤松氏と山名氏には古くからの因縁があり、播但国境に近いこの城が重要な防衛及び出撃拠点であったことを意味する。事実、嘉吉の乱の直後には播磨奪回を目指す赤松満政の乱があり、応仁の乱の際には赤松家再興を果たした赤松政則が山名家に奪われた旧領を奪い返し、応仁の乱後には宗全の跡を継いだ政豊が播磨などを再び掌握すべく出兵するなど、両氏の間には争乱が絶えなかったようだ。

竹田城天守台から南の郭群

 また、応仁元年(1467)から始まる応仁の乱では、翌年に京に出兵して手薄になった但馬を丹波守護の細川氏が侵さんとした、夜久野合戦と呼ばれる戦いもあった。この時、光景の子である景近は嫡子宗朝と共に京に出陣し、城は次男の宗近が守っていたが、宗近は他の山名守備隊と共に夜久野ヶ原に布陣し、少数ながら細川軍の本隊に突撃を敢行して散々に打ち破っている。

 このような争乱の絶えない状況の中で、播但国境に近い竹田城を守った太田垣氏は、山名家中で一段と影響力を拡大し、垣屋氏、田結庄氏、八木氏ら他の山名四天王と共に実質的な領国運営者となっていく。山名家当主である祐豊は、天文11年(1542)に播但国境の生野銀山を掌握したのだが、山名氏の一門内での内紛が続く中、宗朝の孫朝延が永禄元年(1558)に銀山に管理吏を置いて山名氏に代わって実質的に銀山を支配しているのは、その顕れのひとつだろう。

 将軍義昭を奉じた信長が永禄11年(1568)に入京した後、翌同12年(1569)に毛利元就の要請で尼子氏残党の牽制の為に但馬に出兵した織田家の部将羽柴秀吉は、尼子党を支援する山名方の諸城を瞬く間に落とし、祐豊を逐電させた。この時、朝延の子輝延が守る竹田城も落城したか降伏開城したと考えられる。後に祐豊は、一千貫の銭を信長に献上して但馬に復帰し、輝延も城に復帰したようだ。この後、丹波の赤鬼と呼ばれた赤井直正天正3年(1575)に一時占領されるが、織田家丹波攻略が始まると直正は退去し、城を回復している。

縄張図

 しかし、山名氏へは、反信長方となった毛利氏からの調略や圧迫が盛んになり、輝延は主家と共に毛利方へと寝返った為、同5年(1577)に播磨を平定した秀吉軍によって城は攻略され、秀吉の弟秀長が在城した。その後、一旦は東播の雄である別所氏が翌年に織田方から離反したことによって但馬攻略は休止され、輝延が再び復帰するが、別所氏滅亡後、同8年(1580)に再び但馬に侵攻した秀吉軍は竹田城を陥落させ、山名氏が長年に渡って支配し続けた但馬は、ついに織田家の領国となったのである。

 太田垣氏の後、秀吉の家臣桑山重晴が城主となり、次いで斎村政広とも名乗った赤松広秀四国征伐後の同13年(1585)に城主となった。広秀は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際に西軍に属して丹後田辺城攻めに参加した後、東軍の勝利を知って兵を引いたが、鳥取城攻めに苦心していた亀井茲矩の誘いに乗り、挽回の好機と西軍方の鳥取城攻めに参加している。しかし、失火か放火かは不明だが、攻撃中に城下を焼失させてしまい、家康の怒りを買って切腹を命じられた。一説には、室が宇喜多秀家の妹であった為に秀家を匿ったという嫌疑を受けたからとも、茲矩の失敗を押し付けられたともいう。いずれにしろ、広秀の切腹によって赤松家は滅亡し、この時に竹田城も廃城となった。

天守台の石垣

 城は、元々は石垣をほとんど持たない中世的山城であったと考えられるが、広秀によって天守台の高石垣をも持つ壮大な石垣造りの典型的近世山城に修築された。城の構造は、山頂に本丸を置いて3方向に伸びる尾根筋ごとに郭を連結し、それぞれ南には南二ノ丸、南千畳、北には二ノ丸、三ノ丸と北千畳を、本丸の北西には花屋敷という方形の郭を置く。大手は、北千畳から円山川や街道がある東の方向に開いており、反対の西側は急峻な崖で、天然の要害の地に壮大な石垣を構築した、まさに天空の城だ。廃城後に破却されず、朽ちるにまかせていたようで、それが幸いとなって今も当時のままの姿をよく残している。一方、太田垣氏が城主であった頃の竹田城の痕跡として、登山道から僅かに堀切や削平地などの遺構らしきものを確認することも可能だ。

 映画「天と地と」で、上杉謙信の居城春日山城として使われ、車道や駐車場が整備されたのだが、その後も知る人ぞ知る程度の知名度だった。それが、雲海に佇む城の姿が紹介されたことで瞬く間に天空の城として認知され、今では入城制限が掛かるほどの観光スポットとなっている。城跡に建物類はないものの、そそり立った高石垣の天守閣跡から眺めると、木々が少なく城の構造がとても解りやすい。更に、川筋やそれに沿う街道筋も眼下に広がり、三大山城に決して勝るとも劣らない、これぞ山城という感動が得られる。

 

最終訪問日:2010/11/28

 

 

個人的には、学生の頃に登城して山城の感動を最初に味わった城であり、非常に愛着が深い城です。

その頃は訪れる人も稀で、隅々まで散策している間に、せいぜい1組か2組のハイカーとすれ違う程度でした。

それが今や屈指の観光スポットですからね。

数年に1回は訪れていたんですが、ある時に日帰りツーリングで朝の8時頃にぶらりと寄ったら、もう駐車場が満車で並んでいて、こんなにも人気なのかと衝撃を受けました。

もう2度と、古城の寂のある竹田城は味わえないんなだろうな~