Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

龍野城

龍野城大手埋門


 龍野城の前身である龍野古城は、明応8年(1499)に後背の鶏籠山に築城され、赤松家庶流の村秀が城主であった。村秀とその子政秀は、内部対立が続いて衰退する主家を支え、政秀の頃には相応の勢力を築いたが、小寺氏に敗れると勢力を失い、最終的には浦上氏に暗殺されてしまう。こうして、龍野の赤松氏は衰退し、政秀の子広秀は、織田氏の播磨侵攻に臣従した。

 広秀が城から退去し、織田家の播磨侵攻軍を率いた秀吉に開城した後は、秀吉の家臣である石川光元が城代として入り、次いで蜂須賀正勝福島正則木下勝俊と続き、文禄3年(1594)には出石を領していた小出吉政の属城となるなど、頻繁に主が入れ替わっている。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は、姫路に入部した池田輝政の支城として荒尾但馬守が城代となったが、この間、桃山時代から江戸時代初期にかけて改修が行われ、山上の城郭を破棄して麓に近世平山城として再構築された。これが現在の龍野城の直接の前身である。築城時期は、現地には慶長3年(1598)頃とあったが、その頃は光元が再び蔵入地代官として城番をしていた頃で、利便性と経済性を優先した行政官らしい判断と言えるだろう。

復元された隅櫓

 その後、元和3年(1617)に池田氏鳥取へ移封し、代わって姫路藩主となった本多忠政の次男政朝が別家として入り、後には兄忠刻の跡を継いで姫路へ移っている。そして、政朝の所領は小笠原長次が継承し、一時の天領を挟んで岡部宣勝、更に天領を挟んで京極高知と続いたが、万治元年(1658)に高知が転封すると、三度目の天領となって城は一旦破却された。

 しばらく時間が経った寛文12年(1672)になり、今度は脇坂安政信濃国飯田から入封すると、城の再興を許され、かつての城地に改めて再築されることとなる。これが、現在残っている龍野城で、龍野城と呼ばれる城としては、3代目であった。

家老屋敷の門

 脇坂氏は、安政春日局の縁戚である堀田氏の出であったことから、後に譜代扱いとなって老中を輩出しているが、この頃はまだ外様大名であった為に幕府に遠慮して大きな城郭を造らず、居館形式の政庁機能を重視した城としている。城には、当然のことながら天守はもちろん、櫓類も僅かしか存在しなかったが、いざという時には、後背の龍野古城が詰の城として使用できることを念頭に置いていたのは間違いないだろう。

 以後、脇坂氏はそのまま維新まで続き、幕末は老中を出した家系であることから佐幕であったが、最末期には勤皇に転じた為、動乱をうまく乗り切っている。

龍野城下の街並みと隅櫓

 維新後、城は廃城となったが、現在は城跡の藩主居館跡に霞城館という名で御殿が復元され、無料公開もされており、江戸時代の公館の趣があって太平の城の雰囲気があった。ほかにも、隅櫓や多聞櫓門などが復元されており、城下町にも未だに江戸時代の雰囲気が漂う家も多い為、白壁と町屋の雰囲気や景観が印象的で、城と城下町が観光資源になっているようだ。また、龍野はヒガシマル醤油を筆頭に醤油製造でも有名だが、これは藩に保護された産業であった為であり、藩の歴史の一部が今も龍野に息づいている。

景観整備で小学校のプールにも重厚さがあって面白い

 

最終訪問日:2015/8/8

 

 

近世の龍野城は、江戸時代の雰囲気が残る街並みに溶け込むようにあって、武張ったところがありません。

それが街並みによく似合っていました。

ただ、お城周辺は道が細いので、車で訪れる際はご注意を。