Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

兵庫城

運河西側にある城址碑と説明文

 兵庫の地は、大和田(大輪田)の泊として古代から栄え、平清盛が湊から至近の福原に都を移そうとしたのは有名である。このように、兵庫津は中央との繋がりが古くからあり、寺社勢力などとの結びつきが強く、経済的に有力な地であるにもかかわらず、武家の力はなかなか及ばなかった。

 兵庫城の築城は、それまで摂津を支配していた織田家荒木村重が毛利側に寝返り、天正8年(1580)に討伐されてからである。村重の花隈城を攻略した功により、池田恒興が村重に代わって摂津国内に領地を得、同年か翌同9年(1581)に花隅城の資材を活用して築城した。ただ、恒興自身が入城したとの伝承はあるものの、兵庫では領地の西に寄り過ぎている上、子の元助や輝政は伊丹や尼崎を主城としているので、本拠城としてではなく、兵庫津の防衛や支配を強化する目的の城だったと考えられる。

ショッピングセンター北側にある案内板とモニュメント

 その後、兵庫一帯は天正11年(1583)の池田父子の美濃への転出により、当時は三好氏の養子で後に殺生関白と呼ばれた三好(豊臣)秀次が支配し、翌々年には秀吉の直轄地となって片桐且元が代官を務めた。この片桐時代は、兵庫城ではなく片桐陣屋と呼ばれたという。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後も、且元が代官として支配し続けたが、且元は慶長19年(1614)の大坂冬の陣の直前に豊臣方を辞して徳川側に転じ、和睦後に竜田を与えられている。

発掘調査で現れた外堀南側の石垣基部

 大坂夏の陣終結した後、元和3年(1617)に戸田氏鉄が尼崎へ入部すると、兵庫も尼崎藩領となって城は陣屋として利用され、以後も兵庫津を管理する行政拠点として使われた。明和6年(1769)に天領になった後も、縮小されながら勤番所として存続し、維新後には兵庫鎮台が置かれ、すぐ兵庫裁判所と改称された後、初代の兵庫県庁として使われている。

 城の中心は、現在の切戸町から中央市場にかけての部分で、約140m四方の広さがあり、周囲には幅8間の堀が穿たれていた。形は、北東側のみやや弧を描く方形で、その方形の中に本丸と二ノ丸を内堀で隔てて配置してはいたが、馬出も南東側に1ヶ所しか無く、決して堅固な城というわけではなかったようだ。やはり、兵庫津の支配が主目的で、一時的に支えることができる程度の防御力しか与えられていなかったのだろう。

天守の石垣の可能性がある二重に構築された石垣基部と補強の為の胴木

 とは言え、惣構えのような堤防が城下町を囲むように設けられ、湊口惣門から福厳寺付近を通り柳原蛭子神社付近にあった柳原惣門を経て須佐の入江まで、全長約1350mもあり、その外側には堀もあった。この堤は外輪堤とも、外側堤が縮められて都賀堤とも呼ばれていたらしいが、明治8年に整地されてしまっている。

 現在の城跡は、北東から南西に城跡を分断した明治7年の運河開削とその後の市街化によって遺構が失われてしまい、痕跡と呼べるものは何も残っていない。そして、城に代わって兵庫の中心の地位を占め、明治大正時代には一帯の主役であったはずの運河も、時代の流れには勝てず、西を走る幹線道路や地下鉄へその地位を明け渡し、今では船も行き交わなくなった。主役となった道路の喧騒とは対照的に、穏やかな水面が静かに陽光を反射し、まるで時代の移り変わりを無言で表していたようで、印象深い。

二ノ丸土橋の石垣基部と外堀

 

最終訪問日:2022/4/4

 

 

兵庫城は、仕事でちょくちょく通る場所にあるんですが、跡地はショッピングセンターと運河になっているので、残念ながら何も残っていません。

初代の兵庫県庁とか、平清盛とか、兵庫津とかに関するものは、ちょこちょこと復元されたりしてるんですけどね。

城好きとしては、もう少しお城に注目してあげて欲しいな~なんて思いますが、何も残ってないので難しそうです。

城址碑とか案内板が3ヶ所あるので、ぐるりと回って探してみて下さい。