Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

箕谷城

箕谷城跡公園の碑

 城の歴史については、現地に案内板などが無く、さらに手持ちの資料などを探してみたものの、この城に関することは何も記載されておらず、事跡不詳としか言いようがない。

 箕谷周辺の歴史を辿ると、南北朝時代の初期の建武4年(1337)に、新田義貞の一族金谷経氏が丹生山の明要寺で挙兵し、北朝方の赤松則村が囲んだ事が見える。ただ、この戦いは箕谷からやや離れていることもあり、箕谷周辺に影響があった可能性は低そうだ。

 時代が下った戦国時代末期には、再び丹生山が歴史に登場してくる。織田家の中国方面軍の司令官だった秀吉は、天正6年(1578)から東播に勢力を持つ別所氏の三木城を攻め、それに対して反織田陣営は同年に信長から離反した荒木村重の協力で毛利氏からの兵糧を三木城へと運び入れているが、そのルートは花隈城から丹生山を越え、淡河城を経て三木城に至るというものであった。

遺構を再利用したようにも見える公園内の複数の段

 このルートを辿ると、現在の国道428号線にほぼ近いルートで、箕谷城の位置が非常に重要な場所のように思えるが、この三木合戦において箕谷城という名は出てこない。ということは、この時期には既に廃城となっていたのだろうか。それとも、秀吉の配下にあったと思われる有馬氏が支配しつつ、その有馬氏が秀吉の弟秀長による補給ルート潰しには関わらなかった為、拠点として使われなかっただけなのだろうか、よく分からない。現実的に考えると、これだけルートに近ければ名前ぐらい出てきてもおかしくはないはずで、すでにこの頃には城の機能を失っていたと考えるほうが無難なのだろう。

 城跡は現在、城址公園となっているが、住宅地に在る大きめの公園というだけで、特に歴史的な何かを感じさせるような施設や造り方にはなっておらず、公園内の遊具のある所は段状になっていたものの、これが当時の地形を流用したものか、それとも単なる公園造成でできたものなのかは判断できなかった。だが、公園の北側には明らかに郭の跡と考えられる段のついた地形があり、その先はかなり急な崖となっている。恐らく、往時は眼下に街道筋と志染川を押さえた崖城だったのだろう。国道側から見ると、城の防御力の源だったと思われる急峻な崖が確認でき、城が要害の地にあることが理解できる。

 

最終訪問日:2009/9/19

 

 

箕谷城については、何も分からないとしか言いようが無いんですが、地元の図書館などにしか置いていないような、郷土の伝承などを乗せた書籍に何か載っている可能性は高そうです。

時間が取れたら一度じっくり調べてみようとは思っているんですが、なかなかその時間が取れずに延び延びになってますね。