Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

村岡陣屋

 応仁の乱における一方の総大将として有名な山名氏が、江戸時代に築いた陣屋。

 山名氏は、但馬を本拠地とし、室町時代の一時期には六分の一殿と称されたように、全国66ヶ国のうち11ヶ国の守護を一族で占めていた。しかし、戦国時代には、勢力を扶養していた各地で家臣や在地勢力による下剋上に遭い、さらには中核的領国である因幡と但馬の守護職を巡って同族が争った為、一段と勢力を衰えさせていくこととなる。そして、信長が畿内から中国地方へ勢力を伸ばす頃には、もはや大名としての実力をほとんど失っており、山名豊国は信長に降伏し、豊臣政権時代は、その名家の血筋からお伽衆として秀吉に仕えた。

初期の村岡陣屋説明板

 その後、豊国は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で家康に味方し、その功によって、かつての根拠地である但馬国七美郡に6千7百石の所領を得る。戦国時代の荒波を乗り越えてきた豊国の、時勢を読む力はまだ衰えてなかったのだろう。秀吉による有名な鳥取城攻防戦が始まる直前、頑固な籠城と不可解な降伏という硬軟織り交ぜた対応を見せて生き延びた豊国が、関ヶ原という政権変動期において冷静に身を処したのは、とても偶然とは思えない。愚将と評されることもある豊国ではあるが、生き残りをかけた時の判断力に凄みがあるようにすら感じられるのも、豊国という武将の一面なのだろう。

 兎にも角にも、ここに交代寄合の旗本としての山名家が成立した。山名家は旗本ながら、その名家の血筋から、万石大名級の格を与えられていたという。

初期の村岡陣屋跡に建つ民俗資料館まほろ

 豊国は、新たな領国に統治拠点としての陣屋を築くことにしたのだが、最初に陣屋を築いたのはこの村岡ではなく、兎束村という場所で、陣屋構築後に福岡と改称して福岡陣屋と呼んだ。今の国道9号線からハチ北スキー場へと入って行く辺りである。ただ、豊国自身は入国せず、家政は田結庄氏ら重臣に任せていたようだ。

 村岡に陣屋を移したのは3代目となる孫矩豊で、より領地の中央に近い黒野村に目を付け、寛永19年(1642)に陣屋を移し、領主として初めて入国した。矩豊は、町割を行って城下町を造成すると共に黒野村を村岡へと改称し、陣屋周辺も中国の故事に倣って空山を蘇武岳、中小屋川を昆陽川へと改めるなど、積極的に内政政策を進めた領主であったようだ。

後期の村岡陣屋があった御殿山の説明板

 その後、8代義方が文化3年(1806)に後背の尾白山へと陣屋を移し、大手門や硝煙櫓、練兵場などを整備して陣屋としての体裁を整えたのが、御殿山と呼ばれる場所にあった2代目の村岡陣屋である。この陣屋に移った村岡藩は、3代を経た11代義済の時に維新を迎えるのだが、早くから尊王論者であった義済は新政府から評価され、維新後に1万1千石へ石高が直されたことにより、短い期間ではあるが念願の大名へと復帰したのであった。しかし、維新後の版籍奉還によって藩は解体へ進み、陣屋も明治6年(1873)の廃城令を受けて翌年に破却されている。

御殿山にある城門を模した建物

 矩豊が造成した陣屋は、現在の民俗資料館まほろばの辺りで、地形的に考えてほぼ居館と言える構造のものだったのだろう。一方、義方が造営した陣屋は、前述のように今の御殿山公園の辺りで、公園となる前は高校の敷地として使われていたこともあってどの程度当時の地形を残しているかはよく判らないものの、公園の斜面にある段状の削平地などから、かつて陣屋であったことを十分に連想できる。防衛的な要素がほとんど要らない江戸時代の構築でありながら、山城のように非常に高低差があることから、平地の少ない村岡で相応の大きさの陣屋を構える為、まとまった平坦な場所を確保するのに苦労したのだろう。山がちな小藩の工夫が偲ばれる陣屋である。

 

最終訪問日:2011/5/21

 

 

国道9号線を挟んで向かい合う、平地の陣屋と中腹の陣屋。

どちらも建物などが残っているわけではありませんが、この2つの陣屋跡に加え、山名氏の菩提寺法雲寺にある山名蔵など、山名氏を偲びながらのんびり散策なんてのもいいですね。