Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小田城 (播磨小田城)

小田城址

 東条川へ突き出した丘陵に築かれた平山城で、別名名村田城ともいう。

 築城は、やや北の依藤野を本貫として東条谷を支配した依藤氏とされ、依藤豊秋が築城したと伝わっているが、いつ頃の武将かは定かでない。依藤氏入部の伝承として、文治2年(1186)に備前の豪族宇野豊季が入部して依藤を名乗ったと伝わるほか、赤松満祐が将軍足利義教を弑して叛乱を起こした嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の際、明石に布陣した赤松方の軍勢の中に依藤豊房の名が見えており、豊を通字としていたことが窺える。従って、豊秋は当主か、それに近い嫡流筋の人物だったのだろう。

丘陵の最高部に建つ稲荷社

 一方、この嘉吉の乱で一旦赤松氏が滅亡した後、再興された赤松家の家臣として登場する依藤氏の当主は則忠であり、以降に諱が確認できる武将も秀忠や秀長で、豊の字は使われていない。依藤氏の系図は不明確だが、嘉吉の乱を境に依藤氏内で惣領の系統が変わった可能性も考えられ、それを仮定として築城時期を推測すると、室町時代の前半までの築城と推測できる。

 小田城の比較的詳しい事績として知られるのは、この築城に関する事と、後の永禄年間(1558-70)に落城したと赤松家播備作城記に記されている程度でしかなく、城主等の詳細は知れない。また、この落城は、恐らく豊地城に別所氏が進出した永禄2年(1559)頃の事と思われ、それまでは依藤氏の本拠豊地城の西の支城として活用されていたのだろう。そして、豊地城が城割で廃城になった天正8年(1580)かそれ以前に廃城になったと思われる。

城内で最も広い次段

 城は、前述のように東条川付近まで突出した舌状の丘陵に築かれ、北と西を東条川の蛇行した流れで防御を固め、丘陵のピークから南北に郭を重ねた構造で、北は河岸段丘の下にまで城域を拡げていた。南側は現在、丘陵の根本部分を県道が分断するように通っているが、これは堀切を利用して切り通されたものなのかもしれない。また、県道の南側にも遺構があるようだ。この県道沿いに、目立たない高さで城址碑が建てられており、これが城跡付近で城跡を案内してくれる唯一のものである。

次段の北東側に廻らされた土塁

 城へは、上の城址碑の脇の畦道から北へ進むと行くことができ、西側から城域へ入ると、最高部から数えて3段目となる削平地に毘沙門堂があった。ここからが主郭部だと思われる。そのすぐ上の段は削平地がかなり大きく、北東側には土塁が廻らされていたほか、東側には食い違い虎口の痕跡もあり、もしかしたら重要な居住区画があったのかもしれない。また、この段の北側にも同高の削平地があったが、こちらは残念ながら竹藪に覆われていて散策できなかった。崖の高さや川の近さから考えると、その先には川の水運を利用した何かの施設があった可能性も考えられる。城の中心となる丘陵最高部の段は、それほど大きくなく、見張台のような役割があったものと思われるが、ここには現在は稲荷社が建てられていた。全体としては、複雑な構造ではないものの、遺構が解りやすく、まとまっている城である。

最高部から3段目の削平地にある毘沙門堂

 

最終訪問日:2021/5/4

 

 

依藤氏の本拠豊地城と同じく、別の用事で県道を走っていた際に見つけ、訪れました。

城がありそうな地形と、何かの史跡を表す碑がチラっと視界に入っただけでセンサーが働くとは、城マスターに一歩近付いたかもしれません笑