Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

野村城

かつて宗佐厄除八幡神社にあった説明板

 野村氏が築城したとされる詳細不明の山城。築城時期は不明だが、一説に文明元年(1469)に築かれたと伝わる。

 嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱で一旦滅んだ赤松氏は、政則によって再興されたのだが、当初は加賀半国の守護にとどまり、本貫である播磨は山名氏が守護のままであった。しかし、応仁元年(1467)に応仁の乱が勃発すると、政則は細川方に与して播磨へ軍勢を派遣し、瞬く間に播磨の奪回に成功する。これが、築城と伝わる年の2年前であることから、もしかすると野村氏は、応仁の乱の際に播磨奪還を目指して侵攻した赤松軍の一翼を担っていたのかもしれない。

 播磨奪還を果たした赤松氏であったが、この後、播磨に執着を持つ山名氏との戦いで、老臣らの諫言を聞き入れずに政則は大敗を喫してしまい、家臣団に離反されてしまう。ここで登場するのが別所則治で、政則の側近として将軍との謁見に尽力し、老臣団との仲介役を果たして政則の復権に功を挙げた。これにより、則治は東播磨8郡の守護代となり、明応元年(1492)に三木城を本拠として格段に影響力を拡大するのだが、野村城に在って別所氏に属していたという野村氏は、年代的にはこれ以降に別所氏の影響下に入ったことになる。

 以降の城の事績は不明で、主と仰ぐ別所氏自体にも、浦上氏との対立から三木城を失陥したり、尼子晴政の播磨侵攻と撃退などがあったのだが、三木城から近い野村城の動向はよく分からない。その後、野村城は天文年間(1532-55)に落城したと伝わっており、これは天文23年(1554)の三好長慶の播磨侵攻の際の出来事の可能性がありそうだが、どうだろうか。

 戦国時代後期に入り、播磨に織田氏の勢力が及ぶと、当初は東播磨の諸将は織田氏に協力した。しかし、毛利氏の調略などで別所氏が織田氏から離反すると、雪崩を打って播磨の小豪族は別所氏と態度を同じくする。こうして、織田家の中国方面軍を率いた秀吉と別所氏の戦いである三木合戦が、天正6年(1578)に勃発するのだが、支城網をひとつひとつ潰していた初期なのか、それとも戦後なのか、野村城には宮部継潤が在ったという。ただ、在城期間は短いと思われ、城は戦後の天正8年(1580)に秀吉が行った城割で廃城になったと思われる。

 城は、稲美野北部の東西に大きく広がる丘陵の西端部にあり、今は直線化されている西の草谷川が防衛線を担っていたのだろう。

 野村城のすぐ南に、地元で厄神さんと呼ばれている宗佐厄除八幡神社があり、かつてはそこに城の説明文が立てられていたが、神社が修築で新しくなってからは撤去されてしまっていた。ただ、説明板が在った当時も城へ通じる道は見つけられず、位置関係からも、元々神社境内から城へ通じる道は無かったと思われる。調べたところによると、神社北側の集落から山へ入る道があるらしいのだが、整備はされておらず、散策には相応の心構えが必要のようだ。

 

最終訪問日:2022/1/1

 

 

厄除八幡宮は、年に1度ぐらいは訪れるところなんですが、現在は野村城に関する案内は全く無いようです。

ただ、家からは遠くないので、藪化していない季節にぶらりと散策したいですね。