Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

柿本神社

柿本神社本殿

 三十六歌仙のひとりで歌聖とも称される、柿本人麻呂を祀る神社。神社名の読みは、カキモトではなく、祭神と同じカキノモトである。

 柿本人麻呂は、その生没年を始めとして官位や事跡すらよく判っておらず、ただ短歌や長歌だけが残るという、まさに歌の仙人という感じの人物なのだが、その終焉の地は、一般に石見国益田沖合いの鴨島という。ただ、これも伝承であり、他にも幾つかの諸説や伝承がある。墓所は、大和添上郡にあり、もう廃寺となっているが、柿本寺という柿本氏の氏寺に葬られていた。

 人麻呂がなぜ明石に祀られたかというと、「ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島隠れゆく 舟をしぞ思ふ」という古今和歌集にある歌を人麻呂の詠んだ歌とし、その縁によって明石で歌聖として崇めた為といわれる。また、伝承では、神社の別当寺である月照寺の前身楊柳寺の僧覚証が、仁和3年(887)に夢で人麻呂の霊を感じ、寺の裏の塚が人麻呂の塚だったことから祠を建て、寺の鎮守として祀ったという。ただ、いずれにしても、人麻呂を祀った経緯に関しては、伝説や推測の域を出るものではないようだ。

 柿本神社の創始としては、前述の月照寺の鎮守としての人丸社の祠が最初で、現在の明石城の場所である明石の岡にあり、神仏習合の中で月照寺と一体のものであった。それでも、人麻呂を祀っているという事自体は、比較的知られていたようだ。

神社由緒

 その後、江戸時代に入り、明石を治めることになった小笠原忠政(忠真)は、明石の岡に明石城を築くこととし、柿本神社月照寺と共に明石の岡から移され、現在の姿となった。また、明石の岡の祠はそのまま残され、城の鎮守として祀られたという。移転の年代は、明石城築城工事の基礎部分が完成した元和5年(1619)から同7年(1621)まで資料によって幅があるが、柿本神社のホームページでは同6年(1620)としている。

 人麻呂が祭神ということで、学問や芸事に関する祈願が主となる神社だが、人麻呂が後世に人丸と書かれた事から、人産まるや、火止まるという語呂合わせで、安産祈願や火災除の神様としても信仰されているという。また、人麻呂の歌から、夫婦生活を重視した人物との説もあることから、夫婦和合の神様としても祀られているようだ。

 JRの電車内や、明石市街の浜手からよく見える、大きな時計塔を持つ明石天文科学館のすぐ北に神社はある。社のある人丸山の高台からは、明石海峡大橋や淡路島が一望でき、眺めが非常に素晴らしい。ただ、神社へ車で行く場合は、天文科学館入口を過ぎて更に坂を上ると、公園の横から境内へ登れる道があるのだが、すれ違うのが不可能な1車線の急坂で、七五三などの出入りの多い時期には注意が必要である。

 神社参道は東と西にあるが、西の参道入口の鳥居の下には亀の水という湧水があり、この水は播磨三名水にも数えられているほどの水で、自然林の残る参道を下りて来ると、多くの人が水を汲みに来ていた。亀の水も含め、地元の方に大切にされている神社なのだろう。

 

最終訪問日:2016/11/16

 

 

天文科学館も含め、幼い頃からよく行っていた神社です。

大きな神社ではありませんが、身近な雰囲気があって落ち着く神社ですね。