Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

王塚古墳 (桧笠岡王塚古墳)

環濠が整備された王塚古墳

 5世紀末から6世紀初頭の前方後円墳で、地元では単に王塚古墳と呼んでいるが、地図には桧笠岡王塚古墳とあり、吉田王塚古墳とも呼ぶ。

 推古天皇11年(603)、撃新羅将軍であった来目皇子の後任として、聖徳太子の異母兄弟である当麻皇子征新羅将軍となって西に下るが、播磨の国で妃の舎人皇女が死去した為、同国赤石桧笠岡に葬ったというのが日本書紀にある。王塚古墳はその比定地となっている為、現在は陵墓参考地として宮内庁が管理しているが、一般には五色塚古墳などと同様に、明石平野一帯を支配していた明石国造などの豪族が築いた古墳と考えられているようだ。

 古墳の大きさは、全長102m、前方部の幅35m、後円部の幅38m、高さ8mで、墳丘の周囲に濠を持つ。古墳の周囲は宅地造成の際に整地されて公園となっているが、この宅地造成で3基あった陪塚も整地されてしまい、現在は北側に幣塚公園として1基だけが残っている。

 墳墓の護岸工事が行われる前は、墳丘上の木々から枝が張り出し、環濠の境目も曖昧で、非常に鬱蒼とした感じがあったが、工事後は環濠との水際が綺麗になり、非常にすっきりした外観となった。また、工事の際は、環濠の水がほとんど無くなっていたのだが、工事前から環濠に棲んでいた亀は相変わらず元気なようだ。春には桜が綺麗で、毎年、花見客が多く、地元の人にも身近な古墳である。

 

最終訪問日:2018/4/8

 

 

台地の東側は明石川流域の平野で、陵墓参考地にはなっていますが、この墓に埋葬された人は、当時にその平野部を支配した豪族だったんでしょう。

今は建物が邪魔で、平野部は見下ろせませんが、当時は一望できたと思われます。

支配者の墓としては、ぴったりの場所ですね。

同じ台地の少し南東には、明石氏の本拠である枝吉城があり、明石氏には明石国造の末裔という説があることから、もしかしたらその先祖だったのかもしれません。