Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

岡山城 (備前岡山城)

旭川側から岡山城復元天守を見上げる

 岡山城の前身は石山城で、現在の二ノ丸の北西部分にあった石山という丘陵を城にしていた。この石山城を築いたのは、建武期に活躍した名和長年の一族という上神高直で、築城年代は正平年間(1346-70)という。

 その後、事績は不明となり、戦国時代の大永年間(1521-28)には、松田氏に属していた金光備前が居城としていた。そして、その跡を継いだのが金光宗高であるが、宗高は、浦上村宗の子が養子に入ったものともいわれる。松田氏と浦上氏は長年対立関係にあったことから、敵方の配下に養子を出すというのは考えにくいのだが、管領細川家の家督争いである両細川の乱において、細川高国方に与して共同戦線を張った享禄4年(1531)の天王寺合戦の頃ならば考えられなくもない。一方、備前軍記には、能勢頼吉の弟とある。こちらは、外交関係や家格から考えると妥当な筋であり、両説を比べた場合、後者の方が信憑性があるようだ。

岡山城案内板

 宗高は、家督相続後も養父備前と同様に松田氏に属し、浦上家臣の直家と対立していたが、三村家親の勢力が備中から伸びてくると、永禄6年(1563)かその翌年に石山城を攻撃されて臣従した。その後、同9年(1566)に家親が直家によって暗殺されると、宗高は調略を受けて直家に通じ、家親の子元親が弔い合戦と称してこの翌年に直家と戦って大敗した明善寺合戦で、援軍を要請する重要な役割を演じている。

 この合戦以降も宗高は直家に従っていたが、やがて直家に毛利氏への内通を疑われ、自刃したとも謀殺されたともいう。そして、元亀元年(1570)には直家が城を所有し、天正元年(1573)になって沼城からこの石山城へ本拠を移した。この為、直家は城欲しさに宗高へ疑惑の目を向けたと言われている。

 直家は、石山城を本拠にすると、備前一国の主城として相応しいように、城の改修と街道付け替えなどを含む城下町の整備を行った。しかし、本格的な整備を果たせぬまま、本能寺の変の前年の天正9年(1581)末に死亡したといい、子の秀家が幼かった為、近隣への影響を考えてその死はしばらく隠されたという。

重要文化財の月見櫓

 石山城を受け継いだ秀家は、秀吉の後援を得て一族同然の扱いを受ける猶子となり、57万石を領する豊臣大名の本拠として城の改修に取り掛かった。秀家は、秀吉の指導を仰ぎ、城を石山の東にあった岡山に拡張し、更に巨大な堀として旭川の流路を曲げて眼下に廻らせ、川を改悛した土砂で城下町の整備を行い、慶長2年(1597)頃にはほぼ現在の形になったという。また、この頃から岡山城という呼称になったようだ。

 その後、秀家は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍の主戦派として行動したことから改易となり、合戦で流れを決する寝返りを働いた小早川秀秋が城主となったが、僅か2年で病没により断絶し、慶長8年(1603)には池田輝政の子で家康の外孫である忠継が入封した。これらの各城主は、それぞれ城を改修しているが、城が完全に今の形になったのは、忠継の死後、弟の忠雄が封じられてからである。また、池田家としては幕末まで岡山を領したが、忠雄の跡を継いだ光仲が幼少であった為、輝政の嫡孫にあたる鳥取藩主の光政と入れ替わりとなり、この光政系池田氏が幕末まで続いた。

本丸本段への城門である不明門

 維新後、明治6年の廃城令で廃城となった城は、内堀以内は陸軍に接収されたが、それ以外は民間に払い下げられたようだ。そして、明治12年(1879)の博覧会開催後に破却が始まり、明治15年(1882)には天守や櫓など4棟を残して解体され、さらに昭和20年(1945)6月29日の空襲で天守と石山門が焼失した。戦後、空襲を免れた月見櫓と西之丸西手櫓は重要文化財に指定され、昭和41年(1966)には鉄筋コンクリートながら天守閣も復元されており、現在では櫓門なども整えられて城らしくなっている。

 城の構造は、北東側の岡山と呼ばれた丘陵部を本丸として、その内部を東側の本段、西側の中ノ段、そして主に南側のやや下にある下ノ段の3つに区画し、西と南には内堀が穿たれていた。正保の絵図を見ると、四層六階の天守のある本段を殿守丸、表書院のあった中ノ段を本丸という表記としており、時代によって呼び方が変わったようだ。

本丸中ノ丸の城門である廊下門

 石山城のあった場所は、元の本丸が西ノ丸、元の二ノ丸が二ノ丸内郭となり、二ノ丸内郭は内堀の南側にも拡げられ、西ノ丸と内郭の南西には堀を挟んで二ノ丸外郭が造られた。全体として見れば、近世城郭にしてはやや歪な形だが、これは石山城の縄張を取り込んだ結果なのかもしれない。

 このほか、二ノ丸の西には堀を挟んで三ノ丸があり、更にその外側に外郭と小早川時代に20日間の突貫工事で掘られた二十日堀も構えられ、二十日堀の跡である柳川筋までが城域と考えると、国持大名に相応しい巨大な城であったことが解る。特にこの西方向の堀は五重を数えており、往時は堅固な構えとして誇っていたに違いない。

 現在の城地は、本丸部分を除いて市街地化されており、丸の内付近の桝形のような道が城の名残かと感じさせる程度で、建物も林立し、城跡と知らなければつい通り過ぎてしまいそうなほどである。だが、本丸部分は復元天守もあり、物足りないとは言いつつも、城としての存在感は健在だ。

露出展示されている築城当初の石垣

 

最終訪問日:2011/10/22

 

 

訪れた時は、天守内部の資料館でちょうど宇喜多氏の企画展をやっており、興味深く見ることができました。

また、こちらは行かなかったのですが、北には光政の子綱政が作らせた日本三大庭園の後楽園もあり、時間を掛けてのんびり散策するのには良さそうですね。

ちなみに、天守の巨大さがよく解るのは旭川側かもしれません。

天守ながら壁のようにそそり立っていて、丈夫な近代建築物の雰囲気さえ持っています。