Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小田草城

山頂の本丸と小田草城址

 当地の豪族斎藤氏が標高390mの小田草山に築城し、居城としていた山城。

 城の歴史は古く、麓の小田草神社の梵鐘から、南北朝時代の貞治7年(1364)には城があったことが判る。

 城主であった斎藤氏は、どの系統の斎藤氏かもよく分らないが、もともとは浦上氏の被官だったようで、更に遡れば赤松氏の配下にあったのかもしれない。この辺りは、郷土史の書籍等を調べないと探りようがないが、恐らくは一所懸命に大なる勢力に隷属する国衆であったのだろう。

 歴史上はっきりしているのは、天文13年(1544)の尼子晴久の美作侵攻の際、周辺の岩屋城、高田城、井の内城と同様に小田草城も降伏し、当主実秀が尼子氏に臣従したということである。その後、永禄3年12月(1561.1)に尼子晴久が没すると、好機と見た浦上宗景が美作に侵攻して斎藤氏を攻撃しており、城も攻囲されたのかもしれない。この後も尼子氏の退勢が明らかで、家督を継いだ実次を含む美作の諸氏は、やがて毛利氏を頼るようになり、その旗下にあった備中の三村家親の永禄8年(1565)の美作侵攻も、美作における浦上氏と毛利氏の綱引きの結果だろう。また、永禄8年(1565)に毛利元就によって月山富田城が攻められた時には、尼子氏の援軍依頼を断ったことが見える。しかし、永禄9年(1566)に美作攻略中の家親が、浦上家臣宇喜多直家によって暗殺されると、浦上氏に属さざるを得なくなったようだ。

 その後、同12年(1569)からの尼子再興軍の動きに斎藤氏は呼応しているが、その主戦場は伯耆や出雲であった為、かなり離れた小田草城がどのような役割を演じたか、また、斎藤氏が再興軍に実際に参陣したかどうかなどは、よく分からなかった。

 その尼子氏は、天正6年(1578)に上月城で敗れて滅び、斎藤氏は毛利氏に対抗すべく、浦上氏を下克上した宇喜多直家に従ったが、毛利氏と宇喜多氏が争う中で小田草城を落とされ、当主近実は西屋城に落ち延びたらしい。その後の近実の動向はよく分からないが、一説には、小田草神社の宮司になったともいう。

 城は、比較的急峻ではない山に築かれ、郭や堀切の跡が明確に残っている。展望台となっている郭の下に2つ、上にやや大きめの郭が堀切を挟んで2つあり、その更に尾根続きには大きな堀切と土塁で画したもうひとつの郭があった。この展望台より上にある3つの郭が主郭だったのだろう。尾根筋を削平した郭が連続する、典型的な連郭式の中世山城である。

 登山道は、麓の小田草神社の一角から延び、非常によく整備されていて登り易い。展望台から朝日を浴びつつ眺めた景色はなかなかのもので、山を登った疲れも忘れさせてくれる。この展望台には落書き帳も置いてあり、神社も含めて集落で維持しているという感じで非常に心地よく、心和む城だった。

 

最終訪問日:2001/11/18

 

 

集落を支配したという程度の地侍階級の小さな城にもたくさん登りましたが、遊歩道の整備のされ方で言えば、トップクラスです。

地元の毎日登山会とかもあるんでしょうね。

城に対する愛情を凄く感じた城でした。