Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

下津井城

本丸にある下津井城址

 下津井には、源平争乱の頃から城があったが、この場所ではなく、もっと海側にあったようで、典型的な海城だったと考えられる。また、南北朝時代には、足利尊氏が下津井に滞在しているが、これもその古城付近であったという。

 新しい下津井城の築城年代ははっきりしないが、下津井の湊を押さえる為、古城よりもより防御力が期待できる山の手へ城が移されたと考えられ、争乱が激しくなった戦国期にはすでにあったと思われる。或いは、海際の古城と並立し、古城の詰の機能があったのかもしれない。ただ、この頃は児島半島はまだ児島という島であり、北側の吉備の穴海とよばれる水道が水運の主航路であったことから、南側の下津井城の重要性は、後世ほどではなかったと思われる。

天守台の石垣

 城が本格的な防衛拠点として再築されたのは豊臣政権期で、秀吉の猶子として豊臣大名となった宇喜多秀家が、文禄年間(1592-96)に城を改修し、浮田家久を城主とした。この少し前から、吉備の穴海の組織的な干拓が始まっており、それに伴う航路の変化も、城の重要性の上昇に繋がったのかもしれない。ちなみに、この浮田家久の前の名は遠藤秀清で、日本で最初の銃による暗殺を行った遠藤兄弟の兄の方である。

 慶長5年(1600)、秀家は関ヶ原の合戦で西軍の主力を務めて敗れ、宇喜多家は改易となり、秀家自身は戦後に長期間潜伏するも、結局は八丈島に流された。これに伴って家久も浪人し、城は秀家に代わって岡山を領した小早川秀秋の属城となる。

 秀秋は、関ヶ原の合戦の行方を決定付ける寝返りが有名な武将で、秀家と秀秋の明暗は、合戦における勝者と敗者の典型的な運命を目の当たりにするようだが、関ヶ原の合戦後に行われた大名の再配置の中でも、備前はそれが顕著に表れた国と言えるだろうか。

本丸の石垣

 小早川時代は秀秋病没までの2年ほどと短かったが、下津井城はこの頃に改修を施され、秀秋の付家老的存在であった平岡頼勝が児島一帯を領し、城代を務めたという。ちなみに、この頼勝は、秀秋に寝返りを勧めたひとりである。

 前述のように秀秋が岡山入部後2年で没し、小早川家が絶家となった後、岡山には池田輝政の子で家康の外孫にあたる忠継、忠雄が入封し、慶長8年(1603)から下津井城は輝政の弟長政が城主となった。長政は、幼少の甥忠継や忠雄を補佐する役目を負っていたはずであり、そのような武将が城主を務めた下津井城が、どれだけ重要と見られていたかが解るだろう。また、この下津井城も長政によって大改修され、慶長11年(1606)に現在の遺構を完成させている。

下津井城説明板

 その後、長政が慶長12年(1607)に病没し、子の長明が幼少であった為、輝政の甥である由之が同14年(1609)に下津井城主となったが、由之は同18年(1613)の輝政没後に播磨国明石へと移り、代わって荒尾成利が下津井に入った。そして、寛永9年(1632)に岡山池田家と鳥取池田家の領地が交替となった際、由之の子由成が下津井へと復帰している。しかし、島原の乱以降は城に対する幕府の統制が厳しくなり、寛永16年(1639)に廃城となった。

 城は、鷲羽山からほど近い、下津井湊や瀬戸内を見下ろせる山にあり、一直線上に西から西ノ丸、本丸とそれを囲むようにある二ノ丸、三ノ丸、堀切を介して中出丸、やや離れた東出丸と並ぶ連郭式城郭で、石垣なども多く残る近世山城である。城跡自体は、瀬戸大橋開通で記念公園として整備されたらしく、城に到る遊歩道や城内がすっきりしていて散策しやすい上、城跡から所々眺望が開け、瀬戸大橋などを眺めることができるので、城好きでなくても楽しめる城だろう。ただ、遊園地が近いので、多少の音が常にあり、閑静とはやや言い難いのが、古城の雰囲気としてはやや難点かもしれない。

西ノ丸からの下津井市街地の眺め

 

最終訪問日:2006/5/25

 

 

城跡は、立派な石垣が並ぶ公園で、綺麗に整備されていて、瀬戸大橋開通当初はいっぱい観光客が訪れたんでしょうね。

今でも、城跡からの瀬戸大橋の眺めは雄大です。

散策もしやすく、海を眺めながらのんびりできる、いい公園ですね。