Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高取山城 (備前)

高取山城遠景

 宇喜多氏ゆかりの砥石城の西約1kmに在る山城。

 築城の伝承としては、年代は不明ながら、浦上家臣で美作高取氏の流れと思われる高取氏が築城したといい、その姓から高取山城と呼ばれたという。しかし、古い時代の史料には高島山城とあり、島と鳥が誤って伝えられた可能性があるほか、高尾山城という城についても、同様の事績を持つ城として扱っている史料があり、ややこしい。また、「和気絹」や「備陽国誌」には、高取山城は砥石城の3町西に在ったと書かれているため、記述をそのまま信じれば、現在は砥石城の出城とされている場所が相当する。このように、高取山の名や場所については、各説が交錯しており、色々と不明確な城と言えるだろう。

 巷間に伝わる話では、この高取山城に居していた島村貫阿弥(観阿弥)という浦上家の宿老が、天文3年(1534)6月に砥石城の宇喜多能家を急襲し、自害に追い込んだため、能家の子興家は城を出て放浪し、さらにその子直家は祖父の敵討ちを誓って浦上宗景に仕え、やがて永禄2年(1559)に貫阿弥を討ち果たしたとされる。

 ただ、史料に見える島村氏は、浦上氏の現地支配を担う忠実な郡代としての活動が見え、貫阿弥に比定される豊後守盛実にも、権勢を誇ったような事績は窺えない。ただ、盛実は、永禄5年(1562)末に浦上宗景によって謀殺されたと見られ、これ以降に城がどうなったかは不明である。

 盛実は、実名は盛貫とされ、盛実は字を誤って伝えられたと見られる人物だが、興家が島村氏一族の子供らと争って殺害された事件を調停し、喧嘩両成敗として一族の子供らを罰したことがあり、それが穿って捉えられ、後世に宇喜多直家の敵役として仕立て上げられた可能性があるようだ。

 盛貫の父は貴則とされ、主君浦上村宗が討死した享禄4年(1531)の大物崩れの際に、敵兵もろとも河中に身を投じ、その顔が移ったといわれる島村蟹の逸話を生んだ人物で、その先祖と見られる文明年間(1469-87)の人物には、秀久や景貫といった名が見え、島村氏は、この頃から長船や西大寺に関わりがあったようだ。ちなみに、貫と草書体が似ている貴則の貴についても、個人的には島村氏の通字である貫の誤記である気がしてならない。

 城を訪れた時は、帰路の時間の関係で、おおよその場所の確認だけに留めた。隣の砥石城にも登城することができていないため、砥石城、高取山城、乙子城と、いずれまとめて巡りたい城である。

 

最終訪問日:2022/10/15

 

 

本文にあるように、伝わる事績や名前、場所が非常にややこしい城で、何が史実だったのかよく分らない城です。

ただ、縄張図なんかを見ると、全体の長辺が100mほどでしかなく、郡代という有力者の城にしてはかなり小規模なんですよね。

それまで高取山城と見られていた、砥石城の出城に比定されている城は、長辺で200m以上もありますからね。

そっちの方が、規模的に相応しいようにも感じます。

このモヤモヤを晴らしてくれる史料の発掘が、待ち望まれますね。