Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

常山城 (有漢常山城)

常山城説明板

 常山城というのはよくある名前で、隣国備前にもあり、区別する為に地名を冠して有漢常山城と呼ぶのが一般的である。

 常山城は、麓にあった秋庭氏の居館に対する詰城であった。秋庭氏は、承久3年(1221)の承久の乱の功により、重信の時に備中国有漢郷へ入部した、いわゆる新補地頭であり、一説に桓武平氏の三浦氏庶流ともいわれるが、その詳細は不明という。しかしながら、相模出身という事は間違いなさそうである。

 有漢郷に入部した重信は、居館を造営すると同時に詰城を築いたが、それはこの常山城ではなく、有漢川北岸の台ヶ鼻城であった。重信はその後、延応2年(1240)に後の備中松山城となる大松山城を築いて本拠を移したといい、常山城は台ヶ鼻城築城から大松山城築城までの19年の間に築かれたと見るのが妥当かと思われるが、台ヶ鼻城に代わる詰城として築いたのか、それとも台ヶ鼻城の向城となる支城として築いたのか、目的はよく分からない。

二ノ丸を横から

 また、これとは別に、重信の後裔で南北朝時代の武将秋庭重明が有漢に居館を築き、その詰として常山城を築いたという話も伝わる。この南北朝時代の一時期、大松山城には高橋氏や高氏が在城しており、重明は大松山城を去って本貫地の居館を再築し、それに伴って詰城としての常山城を新たに築いたと見るのが、上の説に比べて時代背景とも合致するように思えるのだが、どうだろうか。いずれにしても、築城時期の確定には城の発掘調査が必要となるのだろう。

 その後の常山城の事跡は詳らかではないが、秋庭氏は一時は備中守護を務め、後には備中守護となった細川氏の下で守護代となり、元重が半将軍と呼ばれた管領細川政元に従って近江に出陣するなど、勢力を保っていたと思われる。しかし、政元が後継者争いの余波で永正4年(1507)に暗殺された直後、両細川の乱に巻き込まれたのか、元重は有漢に帰農したといい、これ以降、備中の争乱史に登場しないことから、武家としての秋庭氏は没落したようだ。これに従い、常山城も他の支配者の手へ渡ったと思われる。

浅くなりながらも残っている堀切

 秋庭氏に代わって備中松山城を支配したのは幕府直臣の上野信孝で、やがて上野氏から有力国人の庄氏に代わり、更には成羽から進出した三村家親へと城主が変遷していくが、常山城はこの備中松山城の属城となっていたか、或いは北から勢力を伸ばして来ていた尼子氏の支配下にあったようだ。特に三村家親とその子元親は、毛利方の援護を得て新見まで支配下に収めており、常山城も支配していたのは確実である。史料には、元親が織田氏に通じて毛利氏に叛旗を翻した天正2年(1574)から翌年にかけての備中兵乱時に、三村家臣新山家住が居城したとあり、備中松山城の支城網の一端を担っていた。だが、この備中兵乱において、松山城の周辺支城をまず各個撃破する作戦を採った毛利氏により、常山城も同3年(1575)5月の備中松山城落城に先がけて落城したと思われ、城はそのまま廃城になった可能性が高い。

 城は、岡山道有漢I.C.のすぐ西、うかん常山公園の東端にあり、高速出口正面に公園への案内表示があるので、迷うことはないだろう。公園経由で城に行くのであれば、高速出口から左回りに迂回するような感じで行くことになるが、高速出口付近にも城へ直接行ける遊歩道がある。公園駐車場からは、風と化石の館という城形展望台の西側に城がある為、展望台を越えて遊歩道を下って行く感じで進み、東屋のところの説明板から更に少し下ったところから、左手の遊歩道を10数m登れば主郭部だ。

城跡から少し離れた場所にある模擬天守型の展望台

 城の構造は、方形の本丸を中心に北東南を囲うように二ノ壇、更にその北東側に三ノ壇という、二ノ丸、三ノ丸に相当する郭が置かれ、主郭部の南西側にはっきりと二重の堀切があるのが目立つ。また、東屋の説明板の後ろ側も平場で、ここも城の一角に入るのだろう。その他では、遊歩道を登り切った場所がやや高くなっていたのだが、ここは櫓の基底部だろうか。谷筋に対して張り出しており、櫓台としては丁度良さそうではある。ただ、このように比較的遺構がはっきりと残っている城だが、規模自体は小さい。これは、麓の居館に対する詰城という役割から、居住区域を必要としなかった為だろう。運用方法や規模を考えると、室町時代の様式を色濃く残す城郭と言える。

 現地では、本丸の土塁は木々を掻き分けてなんとか確認できたが、本丸全体が薮化しており、散策は困難だった。城址碑はこの藪の手前にあるが、城址碑の前の部分は下草も刈られ、説明板の場所へ向かって落ち込んでいく切岸が、上から見ても下から見てもなかなか良い。規模が小さい城なので、城型展望台に割く財源をこちらの本物の城に少し分けてもらえれば、もっと散策しやすくコンパクトにまとまった城跡になると思うのだが、そこは惜しい点ではある。

 

最終訪問日:2011/10/22

 

 

詰城として築かれたので、本来なら延々と山道を登らないといけない城のはずなんですけど、大きな公園として整備されているので、登城は楽ちんです。

大きな案内標示があるので、迷うこともないでしょうし、色々とありがたいですね。

訪れた時は大雨の後でどんよりとしていましたが、芝生の敷かれた広い公園もあるので、お城に興味が無い人でものんびりできそうな場所です。