Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

成羽陣屋

成羽陣屋大手門跡

 陣屋が築かれる前の成羽は、戦国時代に成羽へと進出してきた三村氏の根拠地であった。その戦国時代の当主家親は、毛利元就と結び、備中だけではなく、備前、美作へと勢力を急拡大させた武将であったが、敵対する浦上宗景の家臣宇喜多直家の謀略によって永禄9年(1566)に鉄砲で暗殺されてしまっている。ちなみに、これは日本史上初めての銃撃による暗殺であった。

 成羽は、その後も三村氏の重要拠点であったが、毛利氏が仇敵の宇喜多氏と結んだことにより、家親の子元親が織田氏に通じ、天正2年(1574)から翌年に掛けて備中兵乱を引き起こし、敗れて滅んだ。ただ、この兵乱の際、元親から離反して毛利方についた家親の弟親成が成羽を安堵され、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦まで領しており、変わらず三村氏の拠点であった。この頃の居城は、鶴首山頂の鶴首城が主で、鶴首城から少し北に離れた居館形式の成羽城も使われていたらしい。

大手門想像鳥瞰図

 関ヶ原の合戦後、名目上の西軍総大将であった毛利輝元は防長2州に押し込められたため、親成は毛利家を辞して成羽からも退去し、代わって旧宇喜多家臣で旗本の岡越前守が成羽に入部している。しかし、慶長20年(1615)の大坂の陣で子の平内が豊臣方に属したため、戦後に切腹を申し付けられ、改易となった。次いで元和3年(1617)には山崎家治が因幡国若狭から入部して成羽藩が成立したが、家治は三村氏の居館であった成羽城を改修して使ったという。そして、寛永16年(1639)に山崎氏に代わって水谷勝隆が成羽に入封し、ようやくこの成羽陣屋の地に新たに城を興す工事を始めたのだが、3年後には備中松山城へ転封となってしまった為、城の完成には至らなかったようだ。

 その後、万治元年(1658)に5千石の交替寄合として、山崎豊治が成羽に入部する。この豊治は家治の次男で、丸亀藩主である本家の甥治頼が幼主であった為、成羽入部以前は5千石を分知されて後見人を務めていた。だが、治頼の病没で本家が無嗣断絶となり、豊治も合わせて取り潰されるはずだったところを、幸いにも分知された分だけがなんとか認められて家名存続を許され、旗本となって成羽に入部したのである。

 豊治は、自らの陣屋構築に際し、勝隆が起工していた工事を再開し、完成させた。それがこの成羽陣屋である。

御作事門の石垣

 陣屋は、大きくは御作事場と書院、御庫に分かれるが、御庫の部分には野面積の石垣があり、それ以外は打ち込みハギで、野面積の部分が水谷時代、打ち込みハギの部分が山崎時代に築かれたものという。だが、基礎部分の縄張工事は、勝隆時代にすでに完成していたのではないだろうか。なぜなら、5千石という身代にはあまりにも重厚な石垣で、大手門の桝形には櫓門もあったというから、無城大名クラスの陣屋に匹敵する規模なのである。つまり、すでに基礎工事の終わっていた縄張を石高に合わせて変更せず、基礎に沿ってそのまま工事を進めたということが想像できるのだが、どうだろうか。ちなみに、明治維新の際に石高の修正が行われ、晴れて山崎家も大名に列している。

 維新後、陣屋は明治6年(1873)の廃城令によって廃され、その跡地は現在、美術館と小学校の敷地になっており、残念ながら建物の類は無い。だが、陣屋東部分のかなり重厚な石垣が今も健在で、今の施設の周囲を廻っており、古城といった雰囲気は十分である。また、駐車場も旧成羽町役場に備えられているので、気軽に車を止めて散策が可能だ。後背には峻険な鶴首山が迫り、少し西の太鼓丸公園から鶴首城へ登ることができるので、こちらも成羽陣屋と合わせて訪れたい城である。

成羽陣屋縄張図

 

最終訪問日:2007/6/21

 

 

陣屋の跡とはとても思えない、重厚な石垣が残っている陣屋です。

主要県道沿いにあり、駐車場もバッチリで、これほど気軽に重厚な石垣を味わえる場所は、なかなか無いですね。