Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

松山城

 三大山城のひとつ。伊予の松山城を始め、同名の城が各地に存在するため、一般には備中松山城と呼ぶ。天守が現存する12城のひとつであり、山城として唯一それを残す城でもある。

 延応2年(1240)、相模から地頭として入部した三浦一族の秋庭重信によって、大松山に砦が築かれたのが城の始まりという。鎌倉時代末期には、秋庭氏に代わり高橋宗康が入部して現在の小松山へと城を拡張し、南北朝時代の文和4年(1355)には高師秀が入部したが、その家臣となっていた重信の子孫重明に追われ、秋庭氏が城主に返り咲いた。

 戦国時代に入ると、松山城には、永正年間(1504-21)初期に将軍の命で下ってきた幕府奉公衆の上野信孝が入り、頼久、頼氏と続いたが、天文2年(1533)に備中の有力国人庄為資が、甥の植木秀長や同じく有力国人である三村家親と連合して勢力を拡げ、頼氏を討って入城している。

 さらに、永禄4年(1561)には、家親が毛利元就の後援を得て、尼子方に属していた為資の子高資を追い、尼子氏から派遣されていた城代吉田義辰も討ち破って入城した。そして、松山城を拠点に備前や美作まで勢力を拡げて行くのだが、この三村氏の急膨張を嫌う浦上氏やその家臣宇喜多直家により、家親は同9年(1566)に美作興善寺で暗殺されてしまうのである。この暗殺は鉄砲によって行われ、銃撃による要人暗殺の最も早い例という。

 家親の死後、子の元親は直家に弔い合戦を挑むが、翌年の明禅寺合戦で散々に敗れて求心力を失い、元亀元年(1570)には元親が出陣した隙を衝いて為資の子高資が松山城を占拠し、浦上氏やその家臣宇喜多氏、それと連合して再興を願う尼子氏の影響下に入った。そこで元親は、備中の足場を固めるべく再び毛利氏の後援を得て、同年かその翌年に松山城を攻撃し、高資を討ち取って城を奪回している。

 しかし、毛利氏が将軍義昭の命によって浦上氏から独立した直家と天正2年(1574)に和睦すると、直家に父暗殺の恨みがある元親は、毛利氏から離反して織田方に転じ、各地で毛利軍や宇喜多軍と戦った。これは備中兵乱と呼ばれ、この頃の城には21もの出丸があったらしく、元親もこの堅固さを要として戦ったのだろう。しかし、やがて利を失って竹井直定などの離反者が続出し、同3年(1575)松山城は落城、元親も麓の松連寺で自刃した。

 その後、城には毛利氏の城代が入っていたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は備中奉行を務めた小堀正次、そして遠州の名で有名な子の政一が入り、荒廃していた城が再興されている。そして、元和3年(1617)には池田長幸の所領となったが、長幸の子長常には嗣子がなく断絶し、代わって水谷氏が入部した。

 現在残っている天守や二重櫓は、水谷氏2代勝宗によって修築されたものであるが、この水谷氏も3代勝美に嗣子がなく断絶し、この時の城の受け取りは赤穂浅野藩家老大石内蔵助が指揮している。そして、この水谷氏の後、安藤氏、石川氏と続き、板倉氏が最後の藩主として維新を迎えた。ただ、江戸時代の松山藩では、藩政は専ら麓の御根小屋と呼ばれる政庁で行われ、山頂の本丸には常時4、5人の留守居役が居るに過ぎず、山頂の城は活用されたとは言いがたかったようだ。

 維新後は、幕末に藩主の板倉氏が幕府要職にあったこともあって、破却するよう維新政府から命ぜらた。板倉氏は、山頂の建物については破却したと偽って報告し、そのまま朽ちるにまかせており、明治6年(1873)の廃城令での廃城後に払い下げられた後も、不便な山上の建物は放置され続けたが、昭和初期に町の象徴としての保存運動が起こり、残っていた二層の天守と二重櫓が現在は修復され、その他の櫓も復元されている。全国の城の大半が破却されてしまったことを考えると、経緯はどうあれ、幸運な城と言えるだろう。

 城は、高梁川の水運を押さえる標高480mの臥牛山にあり、北から最も高い大松山、天神、小松山、前山の4つの峰を城郭化している要害で、前述のように標高430mの小松山を主郭部としていた。主郭部は、本丸から二ノ丸、三ノ丸と階段状に郭が配され、それらは総石垣となっており、部分的には元々あった岩をそのまま石垣の基部として流用している。本丸の北側には後郭があり、そこから北の相畑木戸、天神ノ丸、大松山城へと動線が続いていたほか、反対の南側には、中太鼓ノ丸、下太鼓ノ丸という削平地もあり、非常に城域は広い。

 実際に山へ登ってみると、大手門あたりは石垣が折り重なるように圧倒的に前方に広がり、三大近世山城のひとつに数えられている理由がわかるだろう。そのまま石段を登っていくと、門跡や郭跡が石垣で区画され、頂上に天守閣が待ち構えている。天守からは、高梁川と川沿いに広がる町並みが一望でき、なかなか壮大な景観だ。また、麓の城下町や旧武家屋敷には、未だ江戸時代の雰囲気を残しており、それほど都市化していない街は、散策するには良い趣を持っている。

 

最終訪問日:2001/6/24

 

 

廃城令を生き残った城の中には、高松城天守のように老朽化で解体されてしまったのもありますから、松山城天守がほったらかされたまま、たまたま残ったのは、本当に幸運ですね。

山城で天守が残っているのはほかにありませんから、深い山の中に屹立する白い天守というのは、貴重です。