Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

三星城

 美作の豪族後藤氏の居城。

 三星城は、三星山に築かれた城で、3つの峰があることからの名である。築城された年代は詳らかではないが、応保年間(1161-1163)に渡辺長寛が築いたという。しかし、美作守護であった梶原景時が没落する頃までは渡辺氏が城に在ったようだが、以降の詳細はよく分らない。

 三星城主として見える美作後藤氏は、承久3年(1221)の承久の乱後鳥羽上皇方につき、鎌倉幕府に叛旗を翻した後藤基清の子孫と伝えられ、一説には南北朝時代の観応2年(1351)に康基が美作国内に地頭職を得たという。だが、基清は承久の乱以前に播磨の守護職を務めており、その影響かどうか西播磨や美作には後藤姓が多く存在するので、この康基の直系の子孫が三星城主の後藤氏かどうかは断定できない。

 室町時代の後藤氏の動向は詳らかではないが、明応年間(1492-1501)に康秀が立石氏を攻撃して敗死したものの、子の勝政が立石氏の打倒に成功して台頭したことが見える。その後、赤松氏の勢力を美作から駆逐するなどして基盤を固め、天文年間(1532-55)中頃には、山陰から勢力を伸ばしてきた尼子氏に一時は臣従したものの、後にかつての赤松家臣である浦上宗景と結んでこれと対立した。だが、川を挟んだ対岸にある林野城を攻めた時には、守将であった尼子重臣川副久盛の反撃に遭って敗れている。

 その後の勝基は、尼子氏の没落もあり、東美作の覇権を確立しつつあった。しかし、今度は備中から尼子方勢力を駆逐した三村家親が、尼子氏と入れ替わるように美作へ侵攻し、永禄8年(1565)には三星城も攻撃に晒されている。

 その翌年にも家親は再び美作へと侵攻したのだが、その時に浦上家臣宇喜多直家によって家親が暗殺されると、勝基は反転して勢力を拡大し、東美作の大部分を支配下に収めた。しかし、今度は浦上氏と敵対するようになり、後ろ盾として毛利氏と結んだのだが、元亀2年(1571)には浦上勢に攻められ、三星城に籠城して凌いでいる。

 その後、天正3年(1575)に直家が主家である浦上宗景を滅ぼし、毛利氏と結ぶと、同7年(1579)に勝基が織田方に通じたとして、重臣延原景能を総大将として後藤氏の討伐に取りかかり、5月には内応による出火で城は陥落した。この落城の際、勝基は城を逃れたものの隠坂という場所で自刃し、子の元政は落ち延びたという。ただ、落城の伝承としては複数の話が伝わっており、この頃には勝基はすでに亡く元政が当主であったという説や、合戦自体が翌年であったという説などもあって、混沌としている。また、落城によって荒廃した城は放置されたのか、以後の事績は知れない。

 

最終訪問日:2001/11/18

 

 

今まで2度訪れているんですが、1度目は雨、2度目は日没で登れずと、なかなか巡り合わせが良くない城です。

目の前に林野城もあるし、天気の良い日を見計らって、日帰りでまとめて2つの城を一気に回ってしまったほうがいいのかも知れないですね。