Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

瀬戸大橋

与島P.A.から四国方向の眺め

 本州四国連絡橋3ルートの中で、最も早く昭和63年(1988)4月10日に全通したルート。

 瀬戸大橋は、瀬戸内海を渡る瀬戸中央道の主たる区間で、瀬戸中央道自体は山陽道から高松道までを結ぶ。広く見れば、山陽道中国道を結ぶ岡山道中国道日本海を結ぶ米子道高松道から太平洋まで繋がる高知道を合わせ、中四国縦貫道路構想の一端を担う。

 瀬戸大橋単体で見ると、単独橋のような名前であるが、ひとつの橋ではなく、5つの島を結ぶ6つの橋の総称で、高架橋を含めれば橋の総数は10あり、全長は12.3kmもある。その内、海峡部だけで9367mの長さがあり、橋の中央を鉄道が、上部を自動車道が使用しているという、3ルートの中で唯一の鉄道と自動車道の併用橋で、併用橋としては世界最長という。

 前述のように、瀬戸大橋は本州四国連絡橋の3ルートのうちのひとつだが、その本四連絡橋構想の歴史は古く、明治22年(1889)に香川県議大久保諶之丞が架橋の必要性を説いたのが最初と言われる。その後、岡山香川県間については、昭和30年(1955)の国鉄宇高連絡船の紫雲丸事故で168名もの死者が出たことにより、一気に架橋の機運が高まった。

 この紫雲丸事故の前年には、世界でも有数の海難事故となってしまった洞爺丸事故も起こっており、海峡部に対する架橋やトンネル掘削の全国的な機運の高まりがあったようだ。このような世論的な後押しもあって、昭和34年(1959)から調査が開始されることとなり、当初は、宇高連絡船を踏襲する宇野高松ルート、大槌島を経由する玉野市日比高松市下笠居ルート、そして児島坂出ルートの3ルートが検討された。その中で、長大橋の距離が最も短く済み、技術的工費的利点があったことから、児島坂出ルートが選定さたという。

 工事は、当初は昭和48年(1973)に開始される予定であったが、オイルショックもあって5年延期されたこともあり、同53年(1978)10月10日にようやく起工された。そして、9年半の歳月を掛けて開通し、平成4年(1992)には四国の高松道とも接続されたことで、名実共に本四を連絡する橋となったのである。

 実際に渡ってみると、思ったほど時間もかからずに通過してしまうため、本州と四国を隔てる大きな瀬戸内海を渡るというイメージと、実際の手軽さの差にやや戸惑う。だが、この手軽さが便利になったという証拠とも言えるわけで、塩飽の漁師しか潮が読めないと言われた船の難所も、今は昔である。

 橋周辺の風景は、岡山側は、かつては児島という島だった沿岸部の山に入ってしまうので、眺望を楽しむ暇もないが、反対側の四国の海岸部の工業地帯の方は非常に印象的で、橋上から見える景色は、まるでコンビナートに突っ込んで行くような錯覚を覚えるほどだ。そのためか、個人的には、明石海峡大橋や鳴門大橋、しまなみ海道と比べると、工業地帯に架かる橋というイメージが強い。

 

最終訪問日:2023/2/11

 

 

頻繁に通る橋ではないですが、ツーリングであちこち行ってると、不思議と定期的に通る橋です。

そして、橋を通れば与島で休憩というのが、黄金パターン。

そういえば、関門橋のめかりP.A.でも同じ行動をしてました笑