Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

池田城 (摂津)

池田城跡に建てられた模擬の城門と城址

 摂津国の有力国人であった、池田氏累代の居城。

 池田氏は、景行天皇の裔とされ、相当古くからこの池田の地に根を下ろしていたらしく、文書での初見は、勝尾寺文書に見える弘安7年(1284)の政長という。これは、尾藤時景の子で池田氏の娘婿となったという景正が常福寺に層塔を建立した、永仁元年(1293)の前世代にあたるのだが、景正より前、つまり養子を取って姓が変わる前までは紀姓であったとする池田氏系図に対し、政長自身は藤原姓を称している上、系図にすら登場しない。つまり、系図上では、政長の存在自体や、その頃の池田氏の動向が全く見えず、信憑性が低いのである。このように、池田氏系図には根拠不明な点が多く、池田氏の出自は、よく分らないというのが実情だろう。

 系図では、その後、南北朝時代の教依の時に池田に城館を設け、楠木正成の長男正行の遺児教正を迎えたとする。実際に豪族として力を付けてくるのは室町時代中期以降で、応仁の乱の頃の当主充正は、高利貸しなどで財を蓄え、強引に土地を押領して勢力を伸ばしたという。史料上で確認できる最古の池田城主も、この充正である。

 充正は、応仁元年(1467)からの応仁の乱に際し、細川氏の家臣として参陣しているが、同年の大内軍の上洛時に降伏し、翌々年の大内軍再上洛の際にも攻撃され、池田城も落城した。大内軍は、しばらくこの池田城を拠点として活用していたが、その撤退後は池田氏の手に戻ったようで、その後も細川家の有力家臣として池田氏は活動している。

公園内から見る模擬の櫓

 戦国時代に入ると、細川政元の後継者争いから畿内の情勢は混沌となるが、当然ながら家臣の池田氏も平穏ではいられず、永正5年(1508)には細川高国の攻撃によって池田城が落城し、当主貞正が自刃した。この時、一門の正盛が高国側に寝返っており、家中でも派閥争いがあったようだ。その後、貞正の子と思われる信正が澄元側として挙兵し、高国側に転じた後、澄元の子晴元に通じた為に高国軍に攻撃され、享禄4年(1531)には池田城は再び落城の憂き目に遭ってしまう。しかし、同年の大物崩れで高国が滅亡したため、信正はすぐ城に復帰している。この後も、信正は暴徒化した一向宗徒による包囲や細川家臣同士の争いの中を巧みに泳いで生き残るが、後に高国の養子氏綱に味方したため、天文17年(1548)に晴元によって自刃させられてしまった。

 信正の跡を継いだ勝正は、この経緯から晴元に反発して氏綱に与し、同じく氏綱方へ転じて幕府の権力を握った三好長慶に従ったようだ。長慶没後の内訌では、三好三人衆方として各地に出兵し、大仏殿炎上の際にも東大寺に在陣している。

池田城縄張図

 その後、永禄11年(1568)の信長上洛の際は、勝正はこれに対抗して籠城しているが、結局は攻囲に屈した。しかし、信長は領地を削るどころか加増して摂津三守護のひとりとして遇し、その恩に応えるように勝正も翌年の本圀寺の変や翌々年の金ヶ崎の退き口などで活躍している。だが、朝倉攻めと同じ年の元亀元年(1570)、勝正は池田家中の叛乱によって追放されてしまう。追放したのは勝正の弟とも庶兄ともいわれる知正であったが、実権は池田二十一人衆から身を興した荒木村重が握っていた。

 当主となった知正は、反織田方に与したが、その実際の軍事的活動は村重に頼る部分が大きく、次第に傀儡化されて池田氏は力を失って行く一方、村重は摂津において勢力を急激に伸ばしていく。そして、池田城の実質的城主も村重となり、信長と将軍義昭の対立が表面化した天正元年(1573)には、村重が織田氏に降り、信長から摂津一国を一任された。そして、村重は翌年に義昭側だった伊丹氏を滅ぼして伊丹城に移った為、知正も神田の館へ退き、池田城は廃城となったようだ。その後、同6年(1578)の村重の叛乱の際に信長が本陣を置き、本丸に大きく手が加えられたが、城として復活することはなかった。

池田城跡公園案内図

 城の構造は、五月山から南へ伸びた峰の突端部にあり、五月山とは杉ヶ谷川の深い谷で区切られ、西は猪名川が防御線となっていたのだろう。初期の城は突端部の崖を防御力としたほぼ単郭の城であったようだが、次第に造成が可能な東と南へ郭を増設していき、最終的には西の低地も惣構えとして取り込んだ城となった。池田はもともと南北の交通の要衝ではあったが、城内に城下町と街道を取り込んで惣構えを構築するというのは、商業を重視した織豊系城郭の影響と考えられ、池田氏が信長に従って以降に大きく改修されたと思われる。

 現在の城跡は、史跡公園となっており、縄張は明確ではないものの、一部の遺構が解りやすく示され、模擬の城門や櫓が建っていた。ただし、公園は夜間に閉園となるので、訪問する時間には気を付けたほうがいいだろう。公園自体は、夜間に閉めるだけあって整備が行き届いており、散策しても非常に心地よい城跡である。また、防御力の要だったはずの崖の上に建つ模擬櫓からの眺めは良く、遠く大阪市街も望むことも可能だ。個人的には、本丸の空堀と公園北側の吊り橋から見える杉ヶ谷川の深い谷がお奨めで、往時の防御力の源泉となった地形を最もよく残していると思われる。

 

最終訪問日:2010/5/26

 

 

夜間は閉門になるということを知らず、早朝に訪れた自分の場合は、9時の開門まで待ちぼうけを喰らうことになりました。

都市にある城は公園化されてたりするので、下調べは大切ですね。