Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大坂城

 中世の大阪の地は渡辺といい、渡辺党という嵯峨源氏流の武士団がいた。その始祖は渡辺綱で、大江山の鬼退治で有名な摂津源氏源頼光の四天王と呼ばれ、その子孫は水運の権益を保持し、戦国時代まで一帯に勢力を持っていたという。

 一方、戦国時代に入った明応5年(1496)には、上町台地の北端にあたる地に蓮如石山本願寺を建て、地名に大坂の字を当てた。これが大坂城の直接の前身となる寺院で、史料に見える大坂の最初という。ちなみに大阪は明治後の字で、中世から近世にかけては大坂と書かれる。

 浄土真宗は、この石山を本拠として勢力を広げ、この地にあった門前町もたいそうな賑わいだったという。しかし、蓮如の孫顕如の代になると、信長の退去命令を拒否した為に、元亀元年(1570)から足掛け11年に渡る石山合戦が勃発した。信長が退去を命じた理由は、堺にほど近く、淀川水系を通して京都にも交通の便があり、大阪湾とそれに続く瀬戸内海という、天然の巨大な風浪を避けることができる港を持ったこの地に、本拠を置こうとしたからというのが定説である。

 顕如が信長と和睦して石山本願寺を退去したのは天正8年(1580)で、本願寺は後に焼失したとされるが、その2年後の本能寺の変の際には、丹羽長秀大坂城の本丸に、織田信澄が千貫櫓におり、寺院城郭であった本願寺の遺構を再利用し、城郭として再構築されていたようだ。ちなみに、この信澄は明智光秀の娘婿で、しかも、かつて叛乱した信長の弟信行(信勝)の子であったことから、織田信孝と長秀が謀議し、大坂城で討たれたことが史料に見える。

 本能寺の変後、清須会議を経て池田恒興が一時城を預かっていたが、すぐ秀吉が領することとなり、信長の遺志を継ぐように天正11年(1583)からこの地に難攻不落の城を築き、同16年(1588)に主郭部が完成した。信長の安土城を凌ぐかのように、外観五層の大天守を建て、瓦にはふんだんに黄金を用いたという。このような豪奢な造りは内部にも及び、金銀を多用した装飾が施され、大友宗麟が驚嘆して見聞録を残すほどであった。ちなみに、この大天守は黒壁であったが、秀吉の猶子宇喜多秀家の築城した岡山城や、家康から秀吉に奔った石川数正が築城した松本城も黒壁であり、金箔の瓦と共に秀吉と特に親しいという証であったという説もある。

 石山本願寺の時代は、11年の戦いに耐えたといっても、規模はそれほど大きくなく、上町台地と淀川を防御線に利用した寺院城郭だったようだが、秀吉の大坂城は、城域をそれまでに比べて相当な規模で台地上に拡張した為、後の近世城の手本のようになった。ただし、防御力については、海が広がる西側や淀川が台地の下を洗う北側、大和川の支流群が池や湿地を作っている東側に比べ、後に真田幸村真田丸を築いたように、なだらかな南側に難点があったようで、完璧を期すように秀吉が没するまで何度も増改築が行われたという。

 慶長4年(1599)の秀吉没後、翌年の関ヶ原の合戦を経て実質的に徳川政権が成立するのだが、秀吉の遺児秀頼は、城主として大坂城に留まり、摂河泉65万石を支配していた。家康は、豊臣政権の一家臣として上杉討伐軍を起こし、三成ら君側の奸臣を討ったという建前であったため、戦後の論功行賞も、公的には豊臣家臣として行っており、この時点では、秀頼の領地を取り上げるほどの名分は持っていなかったのである。しかし、家康は、徳川幕府を磐石にする為、秀頼が建立した方広寺大仏殿の鐘の銘文に言い掛かりとしか思えない文句を突きつけ、慶長19年(1614)11月、各地の大名を動員して討伐に取り掛かった。いわゆる大坂冬の陣である。

 だが、兵力で劣る豊臣方には歴戦の手練が多く、三重の堀と運河に囲まれた大坂城の防御力もあって惣構えを破ることすらできず、結局、この冬の陣は和睦で終結した。その和睦の条件に、大坂城の二ノ丸と三ノ丸を破却し、惣堀を埋め立てるというのがあったが、徳川家は総堀と解釈して着々と堀を埋めていき、豊臣方が抗議したものの時すでに遅しで、家康の居る駿府と大坂を使者が行き来する間に工事は終わってしまう。こうして、秀吉が改良を重ねて築き上げた堅城も、本丸を残すだけの裸城となってしまった。

 ここで家康は、再び秀頼に大坂から国替えするか城の浪人衆を追放するかという選択を迫って挑発し、受け入れなかった豊臣家と翌年の4月から夏の陣が開始される。だが、軍事的にも精神的にも支えであった大坂城の城としての機能はすでに無く、後藤基次真田幸村毛利勝永といった勇将が討死すると劣勢に追い込まれ、5月8日に炎上、落城し、豊臣家は滅亡した。

 この豊臣家の滅亡後、大坂城松平忠明に与えられたが、元和6年(1620)から徳川秀忠による天下普請で城の再築が始まり、寛永6年(1629)の家光の治世になって完成したものが、現在残っている大坂城である。この徳川時代の城は、豊臣時代の城を完全に破壊して埋めた上に構築したもので、それ以前とは全く別の城となり、規模こそ豊臣時代から縮小したものの、石垣や堀などの城郭構造物は強化された。これは、西国大名の東上の際の防衛拠点として位置付けられたということもあるが、豊臣時代の記憶を消し去るという目的もあったのだろう。

 以後、徳川将軍家の直轄の城として城番や城代が管理していたが、3代将軍家光が訪れた後は14代の家茂まで将軍の入城は無く、また、寛文5年(1665)に天守閣が落雷で焼失し、城としてはあまり活用されなかった。だが、幕末については、京都に近い位置関係もあり、最後の将軍慶喜が二条城と共に頻繁に使っている。そして、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いで数に勝る幕府軍が敗れると、慶喜は極秘に大坂城を退去し、開城の混乱の中で大半の建物が焼失した。つまり、2度の落城が、いずれも時代の大きな変わり目を作ったという城なのである。

 維新後の城は、明治政府にそのまま接収され、明治4年(1871)に大坂鎮台が置かれ、後に鎮台は第4師団へと改組されたが、昭和に入って天守閣復興の機運が高まり、昭和6年(1931)11月7日に鉄筋コンクリート製で復興された。この天守は、豊臣時代と徳川時代を折衷した形式で、正確な外観の再興ではないのだが、地上55mというのは当時としては類を見ない高層建築で、当時の最新工法で造られている。

 後の太平洋戦争では、残っていた旧来の櫓のいくつかが焼失したが、この天守は戦災も免れ、今では、歴代の天守の内で最も存在期間が長くなった。また、明治維新と太平洋戦争の2つの戦災を免れた櫓などは、重要文化財に指定されている。

 大阪を代表する観光地として有名で、資料館を兼ねた天守の展望台を訪れる人は多く、戦火をくぐり抜けた櫓や巨石の石垣など、城内に見るものも多いが、特に外国人観光客にとっては、天守とその背後の高層ビル群という構図が、歴史を持ちつつ近代化された日本を集約しているとして、人気が高いという。個人的には、存在があまりにも当たり前すぎて、きちんと全体を散策したことが無い城でもあり、機会を見てじっくりと散策したい城である。

 

最終訪問日:1998/2/13

 

 

イベント等で城の一部には行ったりするんですが、きちんと城を見学したというのはかなり前ですね。

灯台下暗しの典型です。

いつかまた、気候の良い時期に散策したいですね。