Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高槻城

高槻城址碑

 高槻城は、伝承では正暦年間(990-95)に地元の豪族近藤忠範が築いたというが、史料上で確認されるのは建武年間(1334-38)後期で、北朝側に立った入江春則が高槻周辺で勢力を拡げ、高槻城を補修して居城したとある。ただ、この頃は居館に近い形式だったようだ。

 次に高槻城が登場するのは大永7年(1527)で、両細川の乱での桂川の合戦の前哨戦において、細川高国側の摂津守護代薬師寺国長が敗れて高槻城に落ちたとある。ただ、春則の子孫がこの頃も本拠としていたようで、国長の城というわけではなく、単に落去先に選ばれただけのようだ。実際、後の入江春継(春景)は高槻城に居城し、三好家に従っている。

 三好氏の最盛期を築いた当主長慶の没後、三好氏は主導権争いから内訌状態となってしまうが、このような情勢の中、春継は北西の芥川山城に在城していた三好三人衆のひとり、三好長逸に与していたと思われ、高槻城も芥川山城の支城として機能していたようだ。ただ、春継自身は、三人衆と対立していた松永久秀と親しかったという。

公園内にある高山右近の像

 その後、永禄11年(1568)には、信長が足利義昭を支援して上洛戦を開始し、長逸の籠る芥川山城が信長の上洛軍によって落城すると、翌日には高槻城も開城に追い込まれた。これにより、芥川山城には義昭の幕下にあった和田惟政が入城したのだが、春継は高槻城にそのまま留まることが許されている。しかし、翌年正月には、信長が岐阜へ帰った隙を衝いて三好三人衆が義昭の居た本國寺を襲撃する事件が発生し、春継はこれに加担したため、京で自害させられ、高槻城も惟政が合わせて領することとなった。

 信長上洛後の摂津は、惟政、池田勝正、伊丹親興が旗頭で、摂津三守護と呼ばれていたが、畿内復帰を目指す三好三人衆の動きがあったほか、勝正と親興にも対立があって安定せず、やがて勝正が、三好三人衆に味方した一族池田知正重臣荒木村重によって池田城を追われてしまう。こうして元亀2年(1571)、織田方の惟政と、村重を中心とする反織田方の戦いが茨木川の白井河原で行われ、寡兵の惟政は中川清秀によって討ち取られてしまった。この時、惟政の子惟長と高山友照・右近重友父子は援軍に向かう途中であったが、惟政討死の報を聞いた惟長は高槻城に籠城し、落城は免れている。

高槻城高麗門が移築された本行寺

 この惟政討死後も、惟長が城主の地位を保っていたが、元亀4年(1573)には、その器量を見限った友照・重友父子が惟長を追った。これは、村重が将軍義昭の挙兵を期に信長に従ったのと同時期で、親義昭の惟長を信長方の高山父子が追ったと見ることもできるが、高山父子が村重やその配下にあった親戚筋の清秀と共謀して下剋上を図ったという説もあり、真相はよく判らない。ただ、追放劇に大した混乱は伴わなかったようだ。

 その後、高山父子は信長によって村重の与力に付けられ、高槻城を改修すると共にキリスト教を保護して天主教会堂などを建て、領民にも洗礼を奨励した。この為、領民の8割近くがキリシタンになったという。また、重友自身も信仰が厚く、天正6年(1578)の村重謀叛の際、当初は村重に与しながら、宣教師らを殺して教会も破壊するという信長の脅しに悩み、城主の座を捨てて単身投降したのは有名で、天正10年(1582)の本能寺の変の際に焼失した安土のセミナリヨを高槻に移したのも彼である。

往時の石垣と堀を模した公園の噴水

 本能寺の変後の重友は、秀吉に与して山崎の合戦以降の各合戦に参陣し、天正13年(1585)に播磨国明石へ移った。これは、秀吉の勢力拡大で大坂と京の間の高槻が重要視された為と考えられ、実際、秀吉は吉田勝治などの代官を置いて直轄としている。

 その後、文禄4年(1595)に新庄直頼が入り、直頼は慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に属して改易となった。ただ、直頼自身は家康に心を寄せていたものの大坂周辺が西軍だらけで従わざるを得なかったともいわれ、後には大名に復帰している。

 江戸時代に入ると、対豊臣という背景から城は幕府が管理したが、慶長20年(1615)に豊臣家が滅ぶと、内藤信正が入城して高槻藩が成立した。信正の後は土岐定義が入ったが、定義の没後は子頼行が幼少の為に形原松平家信と代わり、岡部宣勝、形原松平康信、永井直清と続き、永井家が維新まで領している。維新後は明治6年(1873)に廃城令で廃城となり、翌年には破却され、同9年(1876)に開通した東海道線建設に石垣などが持ち出されたという。

高槻城縄張図

 城は、本丸の北に二ノ丸があり、その2郭を帯郭や厩郭、三ノ丸が囲うという凸形の形状で、居館形式の城として出発した後、惟政が本拠に相応しい城として基礎を固め、高山父子が拡張し、土岐時代の元和3年(1617)に幕府主導で大きく改修され、ほぼ現在の形となった。この幕府による改修は、仮想敵国である西国大名に対する備えとして、明石城尼崎城と共に施されたものと考えられている。

 現在、城跡は公園として整備されているが、高山右近の像や模擬の石垣があるだけで、目ぼしい遺構は無く、多くの家族連れが遊ぶ普通の公園だった。ただ、当時からある野見神社を中心として、現在と当時の地図を合わせてみると、槻の木高校の校舎付近が本丸、野球場周辺が二ノ丸、城跡公園と高槻一中辺りが三ノ丸というのがひと目で判ってなかなか面白い。また、主郭部外縁の堀の形も道としてくっきり残っており、この城は、縄張を想像しつつ周辺の様子や城下町の名残などを求めて散策するほうが楽しめる城のようだ。

 

最終訪問日:2008/10/8

 

 

残念ながら本丸は残っていないんですが、三ノ丸近辺がのどかな公園となっています。

遺構はほぼ無いですが。

阪急高槻市駅から近く、気候の良い日に駅でお弁当を買って、のんびり過ごすのも良いかもしれないですね。

そんな城跡です。