Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

高屋城

高屋城解説板

 高屋城は、応永年間(1394-1428)の築城という説もあるが、高屋城の前身という古市城や所在地不明の誉田城との史料上での関連性がはっきりせず、詳しい築城時期は不明という。発掘調査からは、応仁の乱終結直後の文明年間(1469-87)中頃の築城と推測されている。

 築城者は、応永年間の築城なら河内守護で管領も務めた畠山基国応仁の乱直後であれば畠山義就ということになるが、いずれにしても、義就が城主だった時期があるのは間違いない。応仁の乱の一因であった義就とその従兄弟政長の家督争いは、応仁の乱終結後も、義就を祖とする畠山総州家と、政長を祖とする尾州家との争いとなって続き、義就の子義豊(基家)や孫義英と、政長の子尚順の間でこの城の激しい争奪戦が繰り広げられているからである。

 このような内訌を重ねる中で、畠山氏自体が弱体化し、やがて恒常的に細川氏の支援を受けるようになっていくのだが、畿内で絶大な勢力を誇った細川氏家督争いで混乱した永正年間(1504-21)の初期には、細川氏の影響力から脱するため、義英と尚順が和睦するということがあった。しかし、これを察知した細川氏は同3年(1506)に家臣赤沢朝経に命じて高屋城を攻撃し、城は落城、両畠山氏は没落してしまう。だが、細川政元が翌年に謀殺されると、その混乱の中で細川澄元側についた義英が城に入って再び畠山氏の城となり、次いで細川高国と結んだ尚順が城を奪回した。

 この後、尚順の子稙長が永正8年(1511)に城を譲られたが、後に父尚順や義英と対立し、同17年(1520)には義英に城を奪われている。稙長は、同年中に澄元派の後退で城を奪い返すが、翌々年には城が焼失するなど波乱含みで、一旦和睦していた義英とも大永7年(1527)の高国政権崩壊で再び対立に転じた。そして、享禄元年(1528)には反高国派の細川家臣柳本賢治の攻撃で城を明け渡し、高屋城から退いている。

高屋城の本丸として使われた安閑天皇

 この後、城主となったのは義英の子義堯だったが、やはり城主の座は安定せず、家臣の守護代木沢長政が細川晴元に接近すると、義堯は晴元と対立し、享禄5年(1532)に義堯が長政の飯盛山城を攻めた際、一向宗徒の攻撃で義英か義堯のどちらかが自刃してしまう。そして、その余勢で高屋城も一向宗徒によって陥落した。

 これにより、稙長が城に復帰したのだが、もはや畠山家当主に昔日の力は無く、長政や遊佐長教などの有力家臣の意に沿わない稙長は追われ、稙長の弟長経、同じく政国が次々と擁立されている。そして、長政と晴元が対立すると、畠山家中で主導権を握りたい長教が、天文10年(1541)に稙長を城へ迎えて和睦した。稙長が同14年(1545)に没した後、家督を継いだのは晴熈なる人物だが、この人物は稙長の別の弟とも政国の別名ともいわれる。いずれにせよ、もはや傀儡に過ぎず、後に細川氏綱に与して三好長慶と争ったのも長教であり、主導権は有力家臣の手にあったのだった。

 この長慶との争いでは、高屋城は三好軍に天文16年(1547)から翌年にかけて8ヶ月も囲まれたが落ちず、六角氏の仲介で講和している。この後、家督を継いだのは政国の子高政であったが、暗殺された長教に代わって台頭した守護代安見直政(宗房)や、晴元を追った三好長慶との間で相変わらず対立や和睦が目まぐるしく繰り返された。また、それに伴って城主も度々替わり、高政や直政のほか、永禄3年(1560)には長慶の弟義賢も入城しており、三好政権でも河内支配の要諦と見られていたようだ。

 高政や直政らの旧勢力が逆襲した永禄5年(1562)の和泉久米田合戦では、高政は根来衆の協力で義賢を討ち取り、その勢いで高屋城も奪ったが、総力戦となった教興寺の合戦で敗れ、城には再び三好方の三好康長が入っている。だが、長慶が同7年(1564)に死去すると、長慶の養嗣子義継と和睦した高政は翌々年に再び城へ返り咲き、同11年(1568)の信長上洛後は信長に臣従した。

高屋城北側の不動坂の解説板

 だが、直政と長教の子信教は結託して高政を追放し、代わりに擁立された高政の弟秋高(昭高)も元亀3年(1572)か翌年には信教によって謀殺されてしまう。これには、力のある家臣と形骸化した主君という対立だけでなく、信長包囲網に加担する信教と、親信長の秋高の間で方針の対立があったようだ。

 秋高謀殺後、信教は同じく信長と対立する三好三人衆らと手を結び、かつて高屋城主だった康長を天正2年(1574)に城へ迎え入れるが、これに激怒した信長は高屋城を同年と翌年の2度に渡って攻撃し、信教を討死、もしくは落去させ、康長も周辺支城の落城を聞いて降伏している。この時、信長は秋高に嫁いでいた姪の救出に成功し、以後も一族として大切に扱ったという。また、合戦後、高屋城は廃城となり、信長によって破却された。

 高屋城の構造は、畿内の城に時々見られる、古墳を利用した城である。本丸は、安閑天皇稜とその周囲部を流用し、南に方形に近い二ノ丸、そして逆三角形の三ノ丸が続くという南北に長い縄張で、東の石川、西の大乗川を天然の堀とした城であった。また、古市駅周辺から見ると解るが、城の付近は独立した丘陵となっており、少し高い所に築かれた平山城である。ちなみに、大乗川は城のあった頃には北に向かって流れていたようで、現在の北側の川筋は崖や堀になっていたらしい。川の流路が現在のように変更された際に、城の堀の跡が流用されたのだろう。

 現在の高屋城跡は、本丸は御陵として宮内庁の管理で残っているが、当然ながら入ることができない。二ノ丸と三ノ丸は、昭和中頃からの開発で住宅地に変わっており、遺構などは見られないが、唯一と言っていい遺構が不動坂付近にある。北側から安閑天皇陵の横を抜ける坂道がその不動坂で、城内を南北に通る東高野街道の北側の出口、つまり搦手であり、信長による攻撃の際に激戦地になったという。この坂は城の弱点であり、当然のことながら重厚な土塁が構築され、櫓などもあったと考えられており、現在もその土塁の一部を見ることができる。

 

最終訪問日:2008/11/19

 

 

本丸は、天皇陵とされる古墳なので、当然ながら立ち入ることはできません。

そこは残念ですが、城が防御に利用した地形はよく残っているので、散策が楽しい城ですね。