Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

道頓堀

戎橋からの道頓堀の情景

 道頓堀は、木津川と東横堀川を結ぶ約2.5kmの人工の運河である。ただし、一般的には、道頓堀川に架かる戎橋周辺の飲食店の多い繁華街を指す。

 道頓堀を開削した安井道頓は、足利一族である畠山氏の裔といわれ、河内の渋川郡を領して渋川を名乗ったが、後に播磨の安井に移って地名を名字にしたという。その後、安井氏は河内国久宝寺城の城主として河内守護も務めた宗家の畠山氏に従っていたが、後に信長、秀吉に仕えた。その裔である道頓は、名を成安といい、道頓は出家後の号である。

 ただ、道頓の出自については、安井氏説だけではなく、道頓堀からほど近い住吉郡平野郷の成安氏の出という説もあり、明確に出自の根拠となる史料が無いため、不明というのが実情のようだ。とは言え、道頓は町人という捉え方をされることも多いが、れっきとした武士家系であるのは間違いない。

 道頓が大坂城の城南の地を得たのは、秀吉による大坂城築城の際に外堀工事を行った功によってであるが、道頓堀川の前身である梅川の拡張を始めたのは、それから約30年経った慶長17年(1612)である。城南の発展のためには、上町台地から流れ出る小川だった梅川の拡張が必要であるという考えが道頓にあったといわれるが、一説には、生前の豊臣秀吉との約束だったともいう。

まだネオン管だった1994年頃の4代目グリコサイン

 道頓は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣豊臣氏滅亡とともに討死するが、工事は従兄弟の道卜らが引き継ぎ、同年ながら元号が変わった元和元年に完成させた。完成当初、新堀や南堀と呼ばれていたが、松平忠明が道頓の名を取って道頓堀と名付け、これより道頓堀の名が定着した。

 道頓堀の完成以降、沿岸の開発を命じられていた道卜は、芝居興行や遊所を道頓堀の南側に移すことを許され、そこが芝居の本場のようになり、後に幕府が興行を許可した芝居小屋を道頓堀五座と称すようになる。また、そこに来る芝居客を相手にした食べ物屋も多く店を並べるようになり、これらが食い倒れの街大阪のもととなった。

 ちなみに、大阪の食い倒れは、京都の着倒れ、神戸の履き倒れと並んで呼ばれるが、食い倒れとは倒れるほど食べることではなく、食べる道楽で身代を潰すことである。

 道頓堀に架かる戎橋は、自分自身、橋を歩いていた時に写真を撮ってくれと頼まれたことが何度もあったように、大坂ミナミの象徴として訪れる観光客も多い。橋から見える有名なグリコサインも、何かイベントがある時には衣装を変えたりするので、関西ではニュースになる名所である。だが、現在は戎橋が中心となっているような道頓堀エリアではあるが、何かあれば飛び込む若者がいたり、プールが企画されたり、水質浄化を目指して貝を養殖し、貝から真珠が作られたり、そのおかげで鮎の生息できる環境まで改善改善したりと、やはりその根本となる中心は、道頓堀という運河の存在なのだろう。

 

最終訪問日:2000/7/15

 

 

大阪ミナミの象徴ですね。

長らく行ってないですが、今は道頓堀のクルーズとかもあるので、飲みにじゃなく観光客として行ってみたい場所です。