Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

亀山城 (丹波亀山城・亀岡城)

 伊勢の亀山城と区別して、丹波亀山城亀岡城ともいう。

 明智光秀が、丹波攻略の拠点として天正6年(1578)に築いた城とされているが、それ以前の亀山には、丹波守護代内藤氏の一門、内藤忠行が居城とした亀山城があり、亀山城と呼ばれる城の歴史は、明智時代よりも遡る。ただ、この城の築城時期は定かではなく、大まかには室町時代頃という。

 光秀の丹波攻略は、天正3年(1575)から始まり、亀山城主であった忠行の降伏を容れ、すぐ西の余部城の福井貞政を討つなど、一旦はある程度の国人勢力を平定して荻野(赤井)直正の籠る黒井城へと迫ったが、この時は波多野氏などの離反によって撤退に追い込まれている。この攻略戦の際、光秀は亀山城を拠点にしたという説と、余部城を拠点にしたという説があり、両者は同一の城だったという説もあるが、はっきりしたことはよく分からない。

天守台付近の石垣

 光秀は、織田家の各戦線への援軍に追われる中、同5年(1577)末に丹波攻略を再開し、亀山城を再奪取した。そして、丹波攻略の拠点及び治所として、新たに城を築くことを決めたという。この時、城の在る荒塚山には近藤秀政という武将が居を構えていたが、当時の城は居館や砦と呼ばれており、かなり小規模なものだったようだ。いずれにしろ、光秀の築城によって実質的な亀山城としての歴史が始まるのである。

 光秀が丹波を平定した後、主君信長も本願寺を降し、武田氏を滅亡に追い込み、関東や北陸、中国でも有利な戦いを進め、いよいよ天下人への階段を駆け上がって行こうとしていた。だが、その矢先の天正10年(1582)6月、光秀は信長を本能寺に攻め、謀叛を起こす。いわゆる本能寺の変である。

 光秀は、中国の毛利氏を攻撃していた秀吉の援軍を命じられ、この亀山城で軍容を整えたが、老ノ坂から南ではなく東へ向かい、本能寺を襲撃したのであった。この辺りの劇的な情景は、頼山陽の詩に見事に描かれている。

亀山城解説板

 光秀が、本能寺の変11日後の山崎の合戦で秀吉に敗れた後、清州会議によって亀山城は信長の四男で秀吉の養子となっていた羽柴秀勝に与えられた。秀勝の病死後は、秀吉の甥で羽柴秀次の弟でもある同名の羽柴秀勝、更にその秀勝も病死すると、後に小早川秀秋となる羽柴秀俊が入っており、秀吉の養子となった武将が歴代の城主を務め、丹波から京都への口を押さえる城として重要視されたことが解る。

 秀俊が小早川家の養子になり、秀次事件に連座して失脚した後には、秀吉政権の官僚的武将であった前田玄以が入れ替わりで入部した。玄以は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦の際に西軍に属し、子茂勝が細川幽斎の籠る田辺城を攻撃するなどしたため、関ヶ原の本戦後に幽斎の子忠興に亀山城が包囲されてはいるが、玄以が西軍の情報を逐一家康へ流した功を認められ、領地は安堵されている。

 江戸時代になると、茂勝が家督を引き継ぎ、しばしの天領期間を挟んで、岡部氏、大給松平氏、菅沼氏、藤井松平氏、久世氏、井上氏、青山氏と親藩譜代が目まぐるしく入れ替わった後、寛延2年(1749)に形原松平氏が入ると、そのまま維新を迎えた。ちなみに、この丹波亀山藩と伊勢の亀山藩が同名で紛らわしかった為、維新後すぐに名称が亀岡へと変えられている。

亀山城内堀

 城は、光秀が磨き上げるように改修を重ねたというが、実際のところは謎の部分が多い。明智時代の本丸も、江戸期の天守付近ではなく、明智門のあった二ノ丸付近だったともいう。天守は、明智時代に三重のものがあり、小早川時代に改築されたといわれるが、これも維新の頃にあった層塔型の五重天守との関連性に諸説があるらしい。岡部氏入部の際、大坂城に対する拠点として天下普請による改修が行われており、現在残っている城下町などの形も岡部時代に形成されたもので、層塔型登場の時代などを考えると、天守も同じくこの時に造営されたものと考えるのが妥当なところだろうか。

 維新後の城は、明治6年(1873)から陸軍の管轄に入り、次第に払い下げで建造物などが取り壊され、明治末期頃はかなり荒れてしまっていたらしい。その後、綾部を本拠としていた大本教団が新たな本拠地とすべく大正8年(1919)に買い取ったが、2度の大本事件などで教団本拠であった城は破壊を受けた。戦後、教団の手によって石垣の積み直しなどが行われたが、忠実な復元ではなく、城の原形からは変えられている。

城内には野面積の石垣も見える

 城は、東西北をそれぞれ年谷川、曽我谷川、保津川に囲まれた河岸段丘上にあり、崖となる北側に本丸、その南に二ノ丸を置いてそれぞれ内堀で囲い、その東西南側を囲むように大きく三ノ丸があった。三ノ丸の外側は外堀で区画され、その更に外側は惣構えのための惣堀があったが、絵図によれば惣堀のほとんどは空堀だったようだ。地図を見ると、城の西と南に外堀や惣堀の一部が途切れ途切れに残っているのが判る。

 現在の城地は、大本教の敷地となっており、城の見学には大本教の許可が必要だ。二ノ丸跡にある大本資料館の事務所に行けば詳しいことを教えてくれるが、特に複雑な申請はなく、万祥殿で御祓いを受ければ見学が可能となる。

 城内は、城というよりは神社の雰囲気に近く、杜のように木々が深い。遺構は、天守台付近に集中しているが、天守大本教の禁足地となっているため、見学することは不可能で、禁足地に入らないように天守台の付近の石垣を撮るのが精一杯だった。ただ、この石垣も、どの程度過去のものが残っているかは分からず、その辺りは想像力を膨らませるしかないようだ。

 

最終訪問日:2010/5/26

 

 

見学の申請がすごく大変かなとビビってたんですが、手続きは簡単でした。

私有地ですから、見学させてもらえるだけで有り難い話ですね。