もともとは、眼下に土師川、由良川の合流点を見下ろす舌状台地の横山に、豪族塩見氏が文亀年間(1501-04)頃に築城した横山城があった。更に遡れば、弥生時代にも砦として利用されていたと発掘調査から推測されており、軍事拠点としては、地勢的に絶好の場所なのだろう。
この塩見氏は、清和源氏小笠原流とされるものの、その他にも諸説があって出自は不明確で、信氏の時に足利尊氏から天田郡を与えられたとの伝承を持ち、横山城が築かれた頃に天田郡に入部したと見られる。この時の当主は頼勝で、守護代内藤氏の下で天田郡一帯を治め、福知山市内の猪崎城に本拠を置き、横山城には長子の頼氏を入れて横山と名乗らせたようだ。従って、頼勝かその長子の頼氏が横山城を築城したと思われる。また、頼勝は、後に本拠であった猪崎城を三男の利勝に継がせ、利勝はそのまま塩見と称したらしいので、どういう事情かよくわからないが、長子でありながら頼氏は分家の扱いだったようだ。
その後、頼氏の子信房の時代と思われるが、永禄8年(1565)に黒井城主荻野直正の攻撃を受け、これを一族挙げて撃退したものの、松永久秀の実弟で守護代内藤氏を継いでいた宗勝が同年に直正と戦って敗死すると、横山氏も後ろ盾を失い、赤井氏に臣従したようである。さらに、天正3年(1575)から織田家臣明智光秀による丹波攻略が開始され、横山城も八上城や黒井城が落城した天正7年(1579)に落城し、横山氏や塩見氏は滅びた。
丹波を平定し、信長から同国を与えられた光秀は、本拠を近江坂本と丹波の亀山城に置いたが、丹波北部の要衝である横山城も、支配拠点のひとつとして改修し、福知山へと名も改め、一族とも娘婿ともいわれる明智秀満(光春)を城代として置いている。光秀の股肱の臣とも言える秀満が配されていることに、福知山の重要性が解るだろう。
だが、光秀が天正10年(1582)に本能寺の変を起こし、続く山崎の合戦で秀吉に敗れると、秀満も坂本城明け渡し後に自刃し、共に滅んだ。城は、亀山城を与えられた羽柴秀勝の属城となり、次に杉原家次が城主となったとされるが、家次はこの頃に坂本城を任されており、秀勝時代と同じく属城として城番がいたものと思われる。
天正12年(1584)の家次病死後の城主はよく分らないが、文禄3年(1595)に小野木重勝(重次)が4万石を与えられ、城主となった。重次は、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では西軍に与し、東軍の細川幽斎が籠る丹後田辺城を攻囲して開城させたが、関ヶ原の本戦で西軍が敗れると城へ逃げ帰り、恭順の姿勢を示している。だが、田辺城の件や妻ガラシャの死で怒りに燃える細川忠興が福知山城に攻め寄せ、やむを得ず籠城戦になってしまった。結局、城は堅固で容易に落ちず、重次は仲介を受けて助命を条件に開城し、沙汰を待ったが、忠興の怒りが収まらなかった為か、田辺城攻撃のスケープゴートにされたためか、最終的には赦されず自刃している。
福知山城が本格的に改修され、現在の近世平山城の形を整えたのは、関ヶ原の合戦後に入部した有馬豊氏時代で、当初は6万石、後に父に遺領である三田を継承して8万石の城と城下町として整備された。元和6年(1620)の有馬氏の久留米への転封後は、僅かに天領を挟みつつ岡部氏、稲葉氏、深溝松平氏と続き、朽木氏が寛文9年(1669)に入部してからは移動無く維新を迎えている。そして、明治6年(1873)の廃城令で廃城となった。
現在の城跡は、丘陵突端の天守丸、本丸跡が城址公園となっているが、石垣造りだったとされる西の二ノ丸は台地が削られて民有地となり、跡形もなくなっている。二ノ丸から西へ続く三ノ丸こと伯耆丸は、伯耆丸公園として残っており、往時には、その南西に内記丸があり、本丸と二ノ丸の北には対面所と大膳丸があった。ちなみに、現在の内記町となっている場所は、内記丸があった場所ではなく、大膳丸があった場所なので、街歩きの際には注意が必要である。また、唯一の城郭建築物としては、銅門脇番所が公園に移築されていた。
城のシンボルとして建っている三層四階の天守閣は、昭和61年(1986)に福知山市によって復元されたもので、その内部は資料館となっており、光秀時代から江戸時代、はたまた大江山の鬼退治に向かったライコウさんこと源頼光までの資料が、大規模ではないが展示されている。また、夜はライトアップされており、城下町らしい雰囲気を醸し出すのに役立っているようだ。
福知山では、町の整備に尽力した光秀を敬う風潮があり、謀反人としてではなく、良い領主としての実績が残っている。拠点として構築された福知山城が、戦国期の山城のような軍事の城ではなく、標高もあまり高くない統治の城という性格になっているのは、丹波を篤く治めようとする光秀の決意の表れのようであり、福知山市民の光秀に対する感情も、いたるところにあるコミカルなマスコットから、親しみを持たれていることがよく解るだろう。
最終訪問日:1999/8/21
福知山にはよく行くんですが、不思議と城まで足を伸ばす機会は少ないですね。
国道筋から少し入るというのもあるんでしょうか。
機会があれば、城だけではなく、城下町もじっくりと散策したいものです。