Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

宮津城

宮津城解説板

 室町時代の丹後は、一色氏が若狭武田氏や山名氏と争いつつも、ほぼ守護職世襲し続け、戦国期までその勢力を保っていた。戦国末期の当主義道は、信長の上洛以降、その勢力伸張を見て接近したが、将軍足利義昭天正元年(1573)に信長追討の兵を挙げて敗れた後、追放された義昭を保護した為、信長の怒りを買ってしまう。ただ、同3年(1575)の越前一向一揆攻めに義道は従軍している上、討伐までの時間があることから、両者の対立は義昭追放が直接的な要因ではない可能性もあるようだ。

 織田軍による一色討伐は、天正6年(1578)から始まり、細川藤孝が主軍となって侵攻し、明智光秀の援護も受けた。一方の義道は、織田軍を1度は撃退したものの、その後は家臣団の切り崩しもあって本拠建部山城も支えきれなくなり、落ち延びる途中に家臣の裏切りで討たれたとも、病死したともいう。

本丸黒鉄門の袖石垣を成していた巨石

 義道を倒した藤孝は、引き続き義道の子義定(義有・義俊)をも攻めたのだが、義定は八幡山城弓木城へと転じて織田軍を寄せ付けなかった。このため、藤孝は娘を義定に嫁がせて一色氏を一門に迎え、共同して丹後経営にあたることを条件として和睦している。

 宮津城が、藤孝によって築城されたのは、一色氏との和睦が成立する前後の天正8年(1580)という。藤孝は、宮津港の西にある、義定が一時本拠としていた八幡山城に入り、一色勢を監視しつつ海に面した平城を築いた。

 その後、天正10年(1582)に、藤孝はこの宮津城内の家臣の屋敷で義定を謀殺し、その叔父義清と一色氏の残党を弓木城に攻め、完全に丹後を掌握している。ただ、藤孝が一色氏を完全に滅ぼしたのと同じ年の6月に本能寺の変が起こっているが、一色氏の討伐は変の前の2月説と後の9月説があり、一般には光秀に味方した義定を謀殺したことになっているものの、本能寺の変が一色氏討伐に影響したかどうかは定かでない。

唯一の城郭建造物である太鼓門

 その本能寺の変の直後、光秀から協力の要請を受けた藤孝は、頭を丸め、追悼の意を表して要請を断ったというのも、この城での出来事である。変後の藤孝は、田辺城に隠居し、宮津城には当主となった嫡子忠興が入った。

 忠興は、秀吉に仕えて功を挙げたが、秀吉の晩年は石田三成ら文治派と折り合いが悪く、このような背景から、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、積極的に家康に味方することとなる。こうして忠興は、家康の上杉討伐軍の一員として共に行軍したのだが、この時、宮津城では幽斎と名乗っていた藤孝が留守を預かっていたものの、忠興の出陣により、宮津城を含んだ丹後全体でも僅かばかりの守備兵しかいなかったという。

 一方、大坂城では、家康打倒の兵を挙げた三成が、東軍諸将の妻子を人質に取ろうとしていたが、忠興の妻で光秀の娘でもあるガラシャは、拘束を拒否して屋敷に火を放ち、自らの人生に終止符を打った。この知らせは、翌日には宮津城に届き、幽斎は東軍に味方することを表明するのである。

宮津城三ノ丸の解説板

 しかし、丹後に残る守備兵は僅かしかおらず、幽斎は田辺城に籠ることを決意し、他の丹後諸城を拠点として使われないよう破却した上で、全ての兵力を田辺城に集中させた。これが有名な田辺城の籠城戦で、籠城兵5百に対し、攻城軍は1万5千余にも上ったが、幽斎の巧みな采配と攻城軍の揚がらぬ士気によって包囲は長引き、結局は後陽成天皇の勅命で和睦開城に至っている。

 宮津城はこの時、丹後の諸城と共に破却を受け、関ヶ原の合戦後に入部した京極高知は田辺城を本拠としたため、戦後は荒廃するに任せていたようだ。だが、高知の晩年には、宮津城を本拠にすべく大幅に改修したという。

 その後、元和8年(1622)に高知が没し、その遺言によって丹後は3分割され、宮津には嫡子高広が入部した。高広は、引き続き宮津城の整備を続け、城と城下町は寛永2年(1625)に完成したという。しかし、この宮津の京極本家は、高広とその子高国の不和と悪政を理由に寛文6年(1666)に改易となり、天領を挟んで永井氏、阿部氏、奥平氏、青山氏、本庄松平氏と続いて維新を迎えた。

宮津城縄張図

 明治6年(1873)の廃城令での廃城となった後、城地の市街化が進み、現在は遺構と呼べるものがほとんど無く、大手川沿いの石垣の基部と国道176号線沿いの巨石、宮津小の太鼓門だけが残っている。ただ、大手付近や二ノ丸東門周辺などの部分的な発掘調査で、ある程度の様子は判っており、目立たないが説明板も設置されていた。縄張としては、扇形の本丸を囲むように二ノ丸があり、更にその三方を囲むように三ノ丸が設けられ、西は大手川、東は大膳橋の架かる水路までがその範囲と思われる。近世の城としては中程度の規模を持っていたようだが、今の町並みから想像するのは、かなり難しい。

 訪れた時は、駅でパンフレットを貰い、バイクを置いて徒歩で散策した。遺構がほぼ消滅しているため、見るべき所が少なく、また、見る所も宮津駅から徒歩数分の範囲にあり、徒歩で散策するのがちょうど良い距離だ。また、駅に自転車のレンタルが用意されているので、それを利用して見て回るのも良いかもしれない。ちなみに、写真の一色稲荷は旧三ノ丸にあり、義定の謀殺された場所と推測されるが、丹哥府志には一色義清の墓とあるらしく、義定ではなく義清という名前が大きく書かれていた。

家臣の屋敷で一色義定が謀殺されたと推測される場所に建立された一色稲荷

 

最終訪問日:2006/10/8

 

 

もうちょっと残っているかなと期待していましたが、本当に痕跡レベルでしか遺構はありませんでした。

ただ、のんびりとした田舎の市街地で、宝探しみたいな散策は楽しかったです。