Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

八木城

八木城本丸

 丹波国守護代を務めた内藤氏の本拠で、丹波三大城郭のひとつ。

 内藤氏は、藤原秀郷流とされるが、その歴史には不明な所が多い。伝承では、元弘3年(1333)の丹波国篠村八幡宮での足利尊氏の挙兵に内藤顕勝が参加し、功によって建武2年(1335)に船井郡を与えられて入部したのが始まりといい、城もこの時に築かれたという。

 内藤氏が丹波守護代となるのは、応仁元年(1467)の応仁の乱の少し前で、香西元資の後を受けて内藤信承が就任しており、2代後の元貞は細川勝元・政元父子の全盛期に仕え、史料にも多く名前が登場する。

 政元の後継者争いである両細川の乱では、元貞の子貞正は、細川高国に属して丹波守護代の地位を守ったが、貞正の子国貞は、高国が重臣である香西元盛を謀殺したことから離反し、これにより一時守護代の地位を失ってしまう。だが、高国の政敵である細川晴元畿内の主導権を握るとこれに服し、守護代に返り咲いた。

本丸縁辺に残る土塁

 その後、国貞は独立的な動きを強め、晴元に叛く気配を見せるようになり、天文7年(1538)には同じ細川家臣でありながら丹波国内で対立する波多野秀忠(稙道)とそれを援けた三好政長に攻められ、八木城は落城してしまう。これにより、丹波では波多野氏が大きく勢力を伸ばし、逆に内藤氏の影響力は著しく低下したようで、国貞は八木城に復帰してはいるものの、以降は丹波史で影が薄くなる。

 その後、晴元が重臣三好長慶と対立し、長慶が高国の養子氏綱方に転じると、晴元に与した波多野氏に対抗して国貞は長慶と結んだ。そして、天文22年(1553)に三好家臣松永久秀らと共に波多野氏を攻撃するが、晴元方の援軍に逆襲されて国貞が討死すると、八木城も再び落城し、実質的に内藤氏は滅んでしまった。だが、これを聞いた久秀の弟長頼が敗残兵を吸収し、八木城を一日で奪回すると、長頼は長慶から城主に任命され、やがて国貞の娘を室として宗勝と名乗り、内藤氏の名跡を継いだ。

麓に建つ内藤如安の碑

 宗勝は、三好家臣として軍の一翼を担い、丹波衆を率いて畿内の合戦に参陣する一方、隣国若狭の逸見昌経に援軍を出すなど、活発な動きを見せている。この頃、丹波国内では三好方に八上城を落とされた波多野氏が没落する一方で、西丹波の赤井氏が赤鬼と恐れられた直正の活躍で徐々に勢力を拡げつつあった。丹波一国を掌中に収めたい宗勝は、赤井氏の勢力伸張を看過できず、永禄8年(1565)に直正の居城黒井城を攻撃するために出陣する。だが、和久郷での合戦は大敗北に終わり、宗勝自身も命を落としたほか、配下の国人も多くが離反し、内藤氏の勢力は再び大きく後退してしまった。

 宗勝の没後、跡を継いだのは子の忠俊で、一般には如庵の名で有名である。如庵は、宗勝の死後も八木城に留まったが、後ろ楯となる三好氏も、長慶の死後は分裂の様相を呈しており、巻き返すことが出来なかった。そうこうしているうちに、永禄11年(1568)の信長上洛によって三好勢は駆逐され、如庵は足利義昭に接近して領地を維持していたが、国貞の実子貞勝との間で内訌があり、家中はまとまりを欠いていたという。

本丸と二ノ丸の間にある細長い馬屋

 その後、内藤氏は信長と義昭が対立した際、義昭に与したため、信長と敵対することになるのだが、織田家明智光秀による天正3年(1575)の第一次丹波経略では、光秀に服従していたようだ。だが、光秀が黒井城包囲の際に波多野氏の寝返りで敗れた後、内藤氏は再び独立したようで、天正5年(1577)末から始まる第二次丹波経略では、八木城も同7年(1579)6月に攻撃を受けて落城し、豪族としての内藤氏は完全に滅亡した。

 この時の城主は、史料では内藤有勝とされるが、この武将の実在には諸説があり、如庵が城主だったという説もあるようだ。だが、如庵が熱心にキリスト教を布教したことが仇となり、後のキリスト教弾圧の際に史料の改変や喪失が発生し、史実はよく判っていないという。また、城自体の廃城時期も不明で、発掘調査からは、明智時代も存続したことが示唆されており、廃城は、少なくとも秀吉の勢力下に入った同10年(1582)の清州会議以降と思われる。

 城へは、国道9号線八木駅横で山側に折れ、小学校の脇を抜けると春日神社が見えるが、この神社の西側にクロスを象った如庵の碑と八木城への登城口があった。高速道路をくぐって山へ入ると、鬱蒼とした木々が出迎えてくれる。登山道沿いには手作りの何合目という案内があって分かりやすいが、道が険しく、合数がなかなか増えていかないのがもどかしい。

八木城縄張図

 6合目付近に、峰筋が明らかに張り出したような地形があり、削平されているようだったので登ってみると、そこは数段ある峰筋の郭の突端部だった。名称は対面所と御茶屋という。恐らく大手から登ってくる訪問客や使者などを出迎えた場所と思われ、実質的な城の入口と言える。

 そこから更に登って行くと、10合に達する前に主郭部に着いた。山上に残っている遺構は、さすがに守護代の城と言うべき規模で、広い本丸やそこから北東の峰筋に延びた3段の郭、広く長い馬屋など、かなり見応えがある。また、この本丸の奥まった場所に区画されている金の間は、天守の祖形という。

 一方、本城部分に続く、各重臣が受け持っていたであろう、やや独立した郭は、未だ独立の気風が残っていた当時の在地豪族と守護代の中世的関係性を表しているようにも思え、興味深い。

 城全体では、本丸と二ノ丸、金の間、馬屋、峰筋の段郭などは散策し易いが、北ノ丸や少し離れた重臣の持ち場の郭などは、藪状態になっていて散策に手間取ってしまった。この辺りまで整備されていれば、大きな規模の城として観光や山登りの魅力的な場所になるかと思うと、少しもったいない気はする。ただ、木々の深い山にそっと眠る古城の雰囲気も、これはこれで捨て難い。

八木城周辺の案内板

 

最終訪問日:2010/5/26

 

 

登山は、ほぼ平地からの行程になるので、体力勝負になります。

登りきると、八木の市街地が眼下に広がっていました。

城主気分抜群!