Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

吉原山城

吉原山城から日本海を望む

 城下の名前を取って、峰山城と呼ばれることもある。

 嘉慶2年(1388)、丹後を巡って山名氏と争っていた一色詮範が、父範光の死に伴って本城であった建部山城から退き、吉原山祇山に山城を築いて籠ったのが最初という。この後、詮範、満範父子は山名満幸に降伏しているが、明徳2年(1391)から翌年にかけて起こった明徳の乱山名氏清を討ち、詮範は若狭国今富庄を授けられ、満範は丹後守護に補された。

 この後、吉原山城には代々一族衆が居したようで、満範の孫義遠が吉原四郎、その子義信が吉原越前守を称している。また、戦国時代末期には、織田家臣の細川藤孝(幽斎)に謀殺された義定(満信・義有・義俊)の叔父で、最後の当主となる義清も吉原越前守と称していたが、嫡流の出であり、これは名跡を継いだものだろうか。何にしろ、戦国期の一色氏の系図は、守護大名であった割に不明確で、嫡流及び庶流には諸説があり、しかも在地国人の吉原氏というのも存在したらしいので、話がややこしい。

 城は、このような戦国の変遷の中で拡張されていったようで、頂上の人呼びの峰を本丸と定め、隣接する峰に西ノ丸を築き、3段の砦を造るなどして本格的な戦国山城とした。

 話は前後するが、天正7年(1579)に織田家臣である明智光秀と藤孝が、前述の義定の父である義道を滅ぼし、さらに奥丹後へ兵を進めたため、吉原山城もこの年に攻撃を受けている。また、翌年には、吉原西雲という人物が籠り、藤孝によって討伐されているが、この吉原氏は一色一族ではなく、在地領主の吉原氏のことのようだ。

 一色氏は、前述のように義道が討伐された後、嫡子義定が頑強な抵抗を示して屈せず、最終的には婚姻を結んで和睦し、藤孝の娘婿として丹後を分割統治した。その居城は、細川氏の本拠である宮津城からほど近い弓木城であったが、前述のように、天正10年(1582)に義定が謀殺され、その頃の吉原山城主であった義清が一色家の当主となって弓木城に入り、親一色勢力を糾合して細川氏と対立する。そして、吉原山城には、近藤善明・光明父子が城代となって細川軍に対抗しているが、衆寡敵せず、弓木城と同じく落城した。

京極氏時代から蔵王権現が祀られている本丸の金峰神社奥宮

 丹後を平定した藤孝は、子の興元をこの城に配し、入城した興元は、二ノ丸、三ノ丸を造営して近世山城の体裁を整え、今の上町に嶺山と名付けた城下町を開いたという。興元が配されてたことから、吉原山城は丹後の中でもかなり重要な役目を持つ城として見られていたようだ。ただ、嶺山の地名自体は、その10年ほど前の史料でも確認することができる。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では、細川氏は東軍に属し、家督を継いだ忠興は関ヶ原の本戦で武功を挙げ、隠居して丹後を守っていた幽斎は寡兵をもって田辺城の籠城戦を戦い抜き、九州豊前に加増転封となった。代わって、大津城で西軍と戦った京極高次の弟高知が、東軍に属して丹後田辺12万石余を与えられ、信濃飯田から入部して支配することとなり、吉原山城も、奥丹後の支配拠点として活用されたと思われる。

 元和8年(1622)に高知が死去した後は、その遺命によって領地は3つに分割され、嶺山は朽木氏から養子に入っていた高通が領したが、元和10年(1624)に入部した際、不便となった山城を廃して麓に陣屋を築き、城下町を読みは同じながら峯山と改称した。以降、維新まで京極氏が続いている。

 現在、城のあった吉原山は、京極氏が頂上に権現社を祀っていたことから権現山と呼ばれ、城にも権現山城の名がある。山上の城の構造は、天守台のように一段高くて広くはない本丸を中心に、城主居館があった二ノ丸、櫓台を持つ三ノ丸、これらから巨大な堀切か天然のものか分からない谷を挟んで独立している西ノ丸があり、規模としては中規模の山城といったところだろうか。石垣等は見当たらなかったが、全体的な保存状態は良かった。

 城跡へは、西ノ丸の下まで細いながら車道が通っており、労せず登ることができる。だが、比高はそれほどないので、山の中を通っている遊歩道を登っていっても苦にはならず、古城の雰囲気と城跡からの日本海の絶景をよく味わうには、こちらのほうが達成感があって良いかもしれない。麓の峰山陣屋と合わせ、ぶらりと散策するには丁度良い規模の城である。

 

最終訪問日:2001/10/25

 

 

標高がそれほどないので、ハイキングとして登るのに最適な距離でした。

登れば、日本海まで見渡せる眺望があるので、とても良かったですね。

城好きでない人にも、おすすめの城です。