Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

湯浅城

 遠くからでもはっきりと分かる、城の形をした温泉宿泊施設の湯浅城の南側にあり、平安末期の康治2年(1143)に湯浅党の祖となる湯浅宗重が築城し、広保山城から移ったとされる。

 湯浅氏は、宗永が平治元年(1160,1)の平治の乱の際、熊野詣に向かう途中であった平清盛の帰洛を支援し、平家の有力家人となったが、鎌倉幕府成立後は幕府に所領を安堵されて幕府の御家人となり、湯浅党と呼ばれる武士団を形成した。その当時、自ら藤原秀郷流と称していたらしいが、清和源氏桓武平氏、紀国造などの説もあり、出自ははっきりとしていない。

 南北朝時代に入ると、湯浅党としての結束は弱まったようで、惣領家は南朝に属して戦ったが、諸流の中には北朝に味方した者もいたようである。そして、天授5年(1379)に北朝方の紀伊守護である山名義理が湯浅城を落とすと、一族は四散したようで、この時代以降の湯浅氏の動向ははっきりとしない。

 その後、文安元年(1444)頃、義有王が楠木正秀や楠木正友らとともに八幡城で挙兵するが、この中に湯浅九郎という人物がいたようで、この反乱軍は後に湯浅城に転じて籠城している。しかし、同4年(1447)に、紀伊守護畠山持国らが3度に渡って攻撃したことで落城し、これ以後は城も湯浅氏も歴史の表舞台から姿を消してしまったようだ。

 訪れた時は、国民宿舎入口の案内図に城跡が明記されていたので簡単に見つかったと登山口を探してみたが、周囲にはみかん畑への入口はあるものの、登山道のようなものは見つけられなかった。後で知ったのだが、どうやら遠慮して途中で引き返した民家への道から登って行けるようだ。

 訪れた後、令和3年(2021)年に湯浅党城館跡のひとつとして史跡に指定されたため、ある程度整備が進んでいると思われる。また、国民宿舎に湯浅城の資料が展示されているようだ。

 

最終訪問日:2003/4/26

 

 

国民宿舎の湯浅城のほうに城跡の表記があったので、楽勝と思ったんですが、辿り着けませんでした。

マイナーな城は難しい・・・

今は国指定の史跡になっているので、期待を持って、また再訪したいですね。