Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

郡山城 (大和郡山城)

復元されている郡山城追手向櫓

 大和国内で最大の規模を持つ近世平山城。他にも郡山城という城が複数あり、市名からも分かりやすいため、一般的には大和郡山城と呼ばれることが多い。

 郡山城の史料上の初見は、応保2年(1162)の東南院文書で、地生えの武士団である狼唳之輩が雁陣之城を張ったとある。ただ、雁陣之城がどのようなものであったかは詳らかではない。郡山にはこの後、中殿、辰己殿、薬園殿、東殿、向井殿といった郡山衆が割拠し、現在の郡山城周辺に居館を構えていたとされることから、これら居館の総称であった可能性が高そうだ。

 また、至徳年間(1384-87)の鏑馬日記に、郡山に住んだという小田切氏の名が見え、その子孫として天文元年(1532)に見える小田切春次や、筒井順政の子で養子に入った春政がおり、この小田切氏が郡山城を築いたという説もある。

郡山城天守

 前述の郡山衆は、室町時代興福寺宗徒であった筒井氏と争ったことが見え、延徳2年(1490)に郡山城が落城、同年4月にも筒井氏らによって郡山城が自焼したという。その後、永正3年(1506)に細川家臣の赤沢朝経が古市澄胤の協力を得て、国一揆を平定するために大和へ乱入し、郡山城を落城させたことが見え、また、翌年に朝経が没した後、その子長経が再び大和に侵攻し、郡山に陣を敷いている。

 戦国後期に入ってくると、永禄2年(1559)からは、三好家の重臣であった松永久秀に繰り返し侵略され、郡山城でも郡山辰巳殿が久秀に降った。ただ、その後も争奪が続き、同8年(1565)には、筒井城を失陥した筒井勢が郡山城を拠点のひとつとして松永軍に対抗したことが見え、元亀元年(1570)から翌年に掛けては、松永軍の攻撃を断続的に受けている。

復元された追手門

 久秀は、信長上洛の際に臣従し、旧領を安堵されて信貴山城、多聞山城を本拠としていたが、上の戦いの直後に遅れて筒井順慶も信長に臣従したことで、表面的には大和に平和が訪れた。しかし、後に武田信玄上杉謙信の上洛が確実視されるようになると、久秀は信長に叛旗を翻し、一方で信長陣営に残った順慶との間で再び戦いが繰り広げられることとなる。しかし、久秀の読みとは違い、両者の上洛はならず、1度目は赦されたものの、2度目には信長軍に攻められ、信貴山城で爆死した。こうして久秀は滅び、代わって久秀攻略軍の主力を務めた筒井順慶が、大和一国の支配を任されるようになる。

 国主となった順慶は、その治所として郡山を選び、天正8年(1580)から郡山城の築城を開始したのだが、同時期に大和国の城割を命じられたため、郡山城は名実共に大和の首城となった。郡山城の資材は、久秀の本拠であった多聞山城を始めとした大和諸城の資材を利用しており、翌年には天守も完成したという。

郡山城天守台より東の毘沙門郭方向と大和郡山市

 この後、現在に残る城郭の基本的な形を整えたのは、天正13年(1585)に大和、和泉、紀伊3ヶ国の約100万石の太守として入部した羽柴秀長で、秀長亡き後は養子の秀保、秀吉子飼いの吏僚であった増田長盛へと受け継がれたが、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後は廃城となり、主要な建物は伏見へと移された。この増田家から東軍への引渡しの際に、武略の士として仕えていた渡辺官兵衛了が、見事な采配をして整然と引渡したのは、有名な話である。

 その後、城は城番が置かれるにとどまっていたが、やがて大阪の陣で戦功を挙げた水野勝成が6万石で封じられ、城の修築が開始された。だが、城は長年の放置で荒れ果て、城内は田地と化していたといわれる。そのため、修築に時間が掛かり、勝成が福島正則の改易によって備後福山に転じた時にも完了しておらず、代わって元和5年(1619)に入部した松平忠明の時にようやく伏見から建物が戻され、威容が整った。その後、本多、藤井松平、本多と3度の藩主交替があったが、享保9年(1724)に柳沢吉保の子吉里が入部し、柳沢家が幕末まで藩主となっている。

郡山城絵図と現在の交通

 城は、富雄川と佐保川秋篠川に挟まれた西ノ京丘陵の南端部に築かれ、長方形に天守台の正方形をややずらせてくっ付けたような本丸を中心に、内堀を挟んでその東の栁沢文庫がある場所に毘沙門郭を置き、その北から北西に掛けて法印郭、玄武郭が置かれ、本丸の南には郡山高校の場所に二ノ丸があった。さらに、本丸の西には新宅郭、さらに水堀を挟んで麒麟郭があり、東は陣甫郭と水堀を挟んで三ノ丸が置かれている。このほか、秋篠川の流路を東に変えて佐保川に合流させ、その跡地を惣構となる外堀として用い、この外堀は広く城下町を囲っていた。

郡山城追手東隅櫓

 維新後、明治6年(1873)の廃城令によって城は廃城となり、払い下げが行われ、建物の類は全て取り壊されたが、現在でも本丸と二ノ丸の石垣、その間を画す内堀や中堀がほぼ完全な形で綺麗に残っており、周囲をぐるりと周ってみると、その雄大さに圧倒される。特に天守台は巨大で、展望台のように登れるようになっており、そこからの眺めも非常に爽快だ。また、惣構となる外堀のラインも、所々で今でも確認できる。

 現在、本丸部分は柳沢神社に、それ以外は高校や公共施設などの敷地となっているが、昭和になって大手門と櫓2棟が復元されており、当時の城の姿を部分的ながら留めている言えるだろうか。個人的には、近鉄線沿いにある堀と城門跡の石垣が、妙に鉄路にマッチしていて現代の古城という趣があり、非常に好きな光景だ。

本丸西側の新宅郭と内堀

 

最終訪問日:2024/1/27

 

 

奈良で石垣の城と言えば、この郡山城高取城でしょうね。

天守台なんかは、本当に見応えがある高石垣です。

天守台からの眺望もまた、最高ですね。