Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

多聞山城

多聞山城址

 松永久秀が大和支配の拠点として築いた城で、戦国時代末から江戸時代にかけて一般化した多聞櫓が最初に設けられた城でもある。

 築城開始は、永禄3年(1560)という。当時の大和国は、筒井順昭が日の出の勢いで大和一国を手中に収めかけたものの、若くして運悪く病死してしまい、筒井家の勢力が停滞したところに、三好長慶の家臣であった久秀が大和に大きく進出してきた時期であった。

 久秀が、それまで大和攻略の拠点としていた信貴山城は、大和川に沿って河内から大和へと入る入口の部分であるが、それに対して多聞山城は、大和の中枢地域のすぐ北側である。このような場所に城を築けたということは、久秀が相当の勢力を大和に構築したという証でもあった。

 城が完成した年代は不明だが、工事開始から2年後に四階櫓の棟上式があったらしく、同年に久秀も入城している。この四階櫓は、天守の嚆矢のひとつともいわれるもので、白亜の白壁に黒瓦を葺いた、言わば魅せる外観の櫓であった。この辺りの情景は宣教師の書簡に詳しく、その中では居館や庭園の壮麗さ、美麗さにも言及されている。久秀は、恐らく統治者のシンボルとしての城という役割を、この城に求めていたのだろう。そういう意味でも、天守、そして天守を持つ城の嚆矢のひとつであるといえる。

 しかしながら、久秀が多聞山城に在城した期間は短く、僅か11年であった。その後の久秀の動向を見ると、入城2年後の永禄7年(1564)に長慶が死去し、翌年の将軍足利義輝暗殺などでは久秀と三好三人衆が協力して三好家の家政を担ったが、やがて両者の対立から三好家は分裂の様相を呈してくる。

 久秀は、まず三人衆に協力した順昭の子順慶を筒井城から追ったが、翌永禄9年(1566)には三人衆と筒井勢の連合軍に大和国内の城を脅かされ、久秀が主戦場を摂津へ転じた後も制圧した堺で包囲されるなど、次第に苦戦を強いられるようになり、久秀が三人衆と和睦して堺を脱出した後は、摂津と山城の拠点を次々に失っていく。

 だが、翌10年(1567)になり、長慶の跡を継いだ義継が三人衆の下から出奔して信貴山城に現れ、久秀に庇護を求めた辺りから風向きが変わってくる。これを知った三人衆側は、当然ながら大和に侵入し、久秀と義継が籠った多聞山城を攻囲するが、この時に三人衆が本陣としていた東大寺を松永方が奇襲ことから、東大寺の大仏殿が焼失してしまう。これは、俗説では久秀が焼討ちしたことになっているが、実際は三人衆方からの失火によるものらしい。いずれにせよ、この戦いで三人衆方は敗退し、久秀は勢力を盛り返した。

 翌同11年になると、更に強力な援軍が現れる。それは、足利義昭を奉じて上洛してきた信長であった。久秀は、この年に信貴山城を落とされ、再び多聞山城を攻められているが、信長が上洛するとすぐに恭順の態度を示し、その援軍を得て大和北部を奪い返すことに成功している。だが、大和一国の統一には至らず、雌伏していた順慶と元亀2年(1571)に辰市で戦って敗れ、大きな損害を被ってしまう。

 その後、信長包囲網が形成されると、同3年(1572)に久秀はその一員となり、信長に叛旗を翻すが、信長の各個撃破策の奏功と包囲網の切り札である武田信玄が死去で、天正元年(1573)に久秀は勝機が薄いと見て降伏した。この時、久秀は多聞山城を取り上げられ、城主ではなくなってしまう。また、反松永の立場から信長に臣従した順慶が、織田家臣に組み込まれ、以後の大和は順慶の比重が高まっていく。

 久秀から取り上げられた多聞山城は、明智光秀佐久間信盛柴田勝家などが城番として兵を置いたようだが、後に大和の差配を任された塙直政が城主となったらしい。直政が本願寺攻めで討死した後、大和は順慶に任されたが、宿敵であった久秀の城には入らず、天正4年(1576)から翌年にかけて破城され、石垣などの資材は筒井城、そして大和郡山城へと転用された。

 城は、佐保丘陵の眉間寺山を中心として築かれており、東の善勝寺山、西に隣接する仁正皇后陵、更にその西の聖武天皇陵にも郭があったという。多聞山の南側には佐保川が流れ、堀として利用したのは間違いなく、そこを境として南側には城下町が広がっていたようだ。ちなみに、眉間寺山がなぜ多聞山と呼ばれたかというと、久秀が信仰していた多聞天からつけられたとの説がある。

 現在の城跡は若草中学校の敷地となっており、佐保川から校門を経て校舎まで真っすぐ道と階段が設けられているが、城跡らしくなかなか急峻な道で、通っている学生には恐らく不評なのだろう。城址碑は校門を入ったところにあるが、訪れた時はちょうど下校時間でもあったので、ウロウロと見て回ることもできず、敷地にどの程度遺構が残っているのかは分からなかった。また、西側の仁正皇后陵と聖武天皇陵も、宮内庁指定の陵墓なので入ることが出来ず、残存の程度は全く不明なのだが、こちらは人の手が入っていないだけに遺構は結構残っていると思われる。

 それ以外では、中学校のグラウンドとして使われている善勝寺山と多聞山の間の切り通し状の道が、間違いなく往時は深い堀切だったはずで、この辺りに城の痕跡を見ることができるほか、中学校北側の住宅地に迫る斜面と堀跡にも往時の雰囲気が残っていた。

 城の周囲は道が細く、ランドマークとなる物も少ないので、城跡へ行くにはやや注意が必要だろうか。自分の場合は迷って北側から入ったが、バイクだったので道の細さは関係なく、助かった。車の場合は、2台分も幅が無い道や一方通行が多いため、Uターンできる場所も限られており、どこかに車を止めて徒歩での散策がお勧めだ。

 

最終訪問日:2010/10/12

 

 

城址あるあるですが、学校敷地になっている城跡は、散策が厳しいですね。

とは言え、往時の地形は結構残されているようなので、色々と城の雰囲気は感じられます。

野次馬の後ろから何かの現場を覗くような、そんなもどかしさはありますが笑