Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

松山城 (宇陀松山城)

櫓台のある松山城本丸

 戦国時代には、宇陀三将のひとりである秋山氏の居城として、秋山城や神楽岡城と呼ばれていた。後に松山城へと改められたが、同名の城が各地にある為、宇陀松山城とも呼ばれる。

 中世の大和国は、守護が置かれず、興福寺が守護権力を行使しており、大和の国衆は興福寺の坊官である衆徒か、興福寺と習合した春日大社神領の官人である国民のいずれかの身分で興福寺に属していたが、秋山氏は国民であった。

 その守護権力を有する興福寺別当は、一乗院と大乗院の両門跡のいずれかから出ることになっていたが、権力が絡むと平和的にとはなかなか行かず、鎌倉時代末期には一乗院と大乗院が対立するようになる。そして、南北朝時代には、この対立がそのまま南北朝に分かれての争いとなり、秋山氏は南朝方として活動した。南北朝合一後も、宇陀郡が北朝方であった大乗院の管轄になると、これに対抗して秋山氏は荘園の押領などをしたという。

大手の大空堀

 この秋山氏が南朝方として活動していた頃、宇陀から東に国境を越えた伊勢の北畠氏は、南朝の中心的勢力として存在しており、必然的に同じ陣営として誼を通じたようだ。北畠満雅が、南北朝合一時の明徳の和約にある南北朝両統迭立を反故にされたことに反発し、応永21年(1414)から翌年にかけて叛乱を起こした際には、秋山氏もこれに参加するなど、その後も誼を深め、大和国内の国衆同士の戦いに加担しつつも、次第に北畠氏の影響を強く受けるようになっていった。

 そして、応仁元年(1467)からの応仁の乱を境に、北畠氏は拡大路線を採って戦国大名としての歩みを始め、やがて宇陀の諸将も家臣化されて行く。とは言っても、戦国後期のような明確な主従関係ではなく、陣触れに応じる義務はありながらも、宇陀の諸将間では一揆を結ぶなど、自立性の高い中世的な関係であった。

3段構成となっている大手門付近

 その後の秋山氏は、宗丹が当主の頃と思われるが、北畠一門の木造氏と結んで宇陀での勢力拡大を図ったことが見え、永禄5年(1562)の教興寺の戦いでは、宗丹の子教家が畠山高政方に参陣して三好軍と戦っている。この後、三好氏と和睦したのか、教家が三好家の娘を室に迎えて三好の婿として威勢を振るい、北畠具教の命を聞かなくなったため、北畠軍に城を攻められて降伏し、父宗丹が人質にされたという。大和の情勢としては、三好家臣の松永久秀が大和に進出して勢力を築きつつあった頃の話であり、それに乗じて秋山氏も北畠傘下から三好傘下へと鞍替えしようとしたが、結局は失敗したという事のようだ。

 この後、ほどなくして教家は病没し、家督を継いだ弟直国は、北西への進出を図って松永久秀に降っていた十市遠勝と争い、永禄7年(1564)の三好長慶没後に三好三人衆と久秀が対立すると、三人衆方の遠勝に対抗して久秀と結び、遠勝の居城龍王山城を奪っている。その後、久秀に追われていた筒井順慶に味方したようで、元亀2年(1571)の辰市城の合戦では筒井方として活躍し、後には天正10年(1582)の山崎の合戦の際に筒井城の留守を任されたという。ただ、この時点で筒井城はすでに廃されており、これは郡山城の事なのかもしれない。

春日門跡に現存する石垣は後世の再築

 山崎の戦い明智光秀を討った秀吉は、そのまま天下統一に邁進し、筒井氏も配下大名として豊臣政権に組み込まれていくが、天正12年(1584)に蒲生氏郷が松ヶ島城へ封じられると、直国ら宇陀三将は氏郷の与力となった。その翌年、順慶の跡を継いでいた定次が伊賀へ移封されると、宇陀は秀吉の蔵入地となって代官伊藤義之が入城しており、秋山氏はこの時点ではもう宇陀から離れていたようだ。

 その後、同年に大和郡山城主羽柴秀長に預けられていた加藤光泰が入り、光泰が秀吉に赦された後は羽田正親、多賀秀種と続き、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦で西軍に味方した秀種が改易となった後は、福島正則の弟高晴が入った。この過程で城は近世城郭へと改修され、城下町も整えられたという。しかし、慶長20年(1615)の大坂の陣において、高晴は豊臣方に内通した嫌疑で改易となり、城も風流人として著名な小堀遠州の執行で破却され、代わって宇陀に入った織田信雄松山城を使わず、そのまま城は役目を終えた。

松山城春日門跡の解説板

 城の構造は、頂上部に並ぶ天守郭と本丸を中心に、東西南に渡って大御殿、東帯郭、西帯郭、御加番という削平地が囲い、東南峰に二ノ丸がある。大手は西で、石垣の桝形が御加番と西帯郭の間に通じ、この桝形の下には御定番と巨大な空堀があり、空堀の下に比較的大きい段郭が続く。中世的な構造を近世山城に改修した城なのだが、削平地はかなり広く、中世の頃の面影はあまり感じられない。

 春日神社の春日門石垣から城へと登っていくと、段郭の切岸による喰い違いのような場所があり、その上の大空堀にまず圧倒される。この空堀を越えた先の大手桝形には石垣がよく残っており、大手桝形から見下ろすと、大空堀前後の3段の郭にある、かなりの高低差を認識でき、さすが峻険な山城という雰囲気が漂う。

 この先には、本丸から一段下がった御加番や西帯郭があり、通用門だったと思われる西側から本丸へ上がると、頂上部は相当な広さがあった。本丸の東端には天守郭があって碑が2つほど建っており、ここからは大屋敷や東の御加番の郭、二ノ丸といった東側の眺めが良い。全体としては、発掘調査があったのか、所々ブルーシートが掛けてある部分があったが、下草も刈られており、非常に散策しやすい城だった。

春日神社内の往時の頃のものと思われる石垣

 

最終訪問日:2012/6/2

 

 

大和の近世城と言えば、郡山城高取城が有名ですが、松山城も引けを取りません。

典型的な近世平山城郡山城、峻険な近世山城の高取城に対し、こちらは、中世の城を拡張改修した感の強い、土と石垣の山城ですね。

有名な城が、それぞれ別方向の近世城のパターンというのも、大和の城のなかなか面白いポイントでしょうか。