Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

興福寺

 薬師寺と並ぶ法相宗大本山で、西国三十三箇所霊場の第九番でもある。本尊は釈迦如来坐像。

 興福寺としての創建は、平城京遷都と同じ和銅3年(710)であるが、前身は藤原鎌足夫人の鏡大王が鎌足の病気平癒を祈願して建立した山階寺である。山階寺の創建は、天智天皇8年(669)で、3年後の壬申の乱終結後に飛鳥へ移って地名から厩坂寺と称し、平城京遷都と共に藤原不比等によって現在地へ移され、興福寺と名付けられた。

 ちなみに、興福寺山号は無いが、かつては月輪山の山号があったという。しかし、山号を掲げた南大門付近で水が噴出するなど怪異な現象が起き、山号の額をはずすとピタリと収まったことから、山号は使われなくなったと伝わる。

 もともと興福寺藤原氏の氏寺、つまり私寺として出発したが、藤原氏の勢力拡大に沿うように、藤原一門以外にも天皇や皇后が堂塔を建てるなど次第に公的な性格を帯び、平安時代には七大寺のひとつとして数えられるようになった。

 また、弘仁4年(813)に藤原冬嗣が南円堂を建立した際、その本尊である不空羂索観音が、藤原氏氏神である春日大社の祭神武甕槌命本地仏であるとされたため、次第に春日大社と同一化して神社の運営も興福寺の衆徒が行うようになって行き、平安時代から鎌倉時代にかけては、春日大社の神鏡を付けた神木を押し立てて上洛するという、神木動座と呼ばれる強訴も興福寺の僧が主導して行っている。

興福寺東金堂と五重塔

 中世には、興福寺が、寺の僧兵はもちろん、衆徒や国民といった大和の国人層を掌握して実質的に大和一国を支配し、相当な政治的影響力と武力を持っていたため、武家政権も大和には守護職を置けなかった。しかし、戦国時代になると、大和の国人層が戦国大名化して自立し、また、全国の寺領も在地の豪族に押領されるなどして次第に勢力を衰えさせ、最終的には、衆徒の出である筒井氏が織田政権に取り込まれた後、次の豊臣政権下で伊賀へ移されたことによって、興福寺による大和支配は完全に終焉したとされる。そして、江戸時代には、春日大社興福寺一体の寺領社領として2万1千石余が認められたに過ぎなかった。

 その後、江戸幕府が倒れて明治維新が成立すると、明治政府は勤王思想から神道を保護し、神仏分離の命令を出す。これが、興福寺にとっては非常に大きな出来事となった。

 命令により、春日大社興福寺のような神仏習合による神社と寺院の一体運営が認められなくなり、僧は強制的に春日大社神職にされたほか、子院も全て廃されてしまう。また、結果的に廃仏毀釈という寺院衰退の潮流が全国に広がってしまったため、興福寺もその影響をもろに受け、境内を区切る塀が撤去されてしまい、それまでの境内は奈良公園にされてしまった。これは現在でも修復されず、仏教的意味での清浄な境内と猥雑な俗世というものを区画する境界が曖昧という、不完全な寺院形態のままとなっている。

夕景の南円堂と境内

 興福寺の宗派である法相宗というのは、あまり聞かない宗派であるが、あの三蔵法師玄奘がインドから持ち帰った経典類のうち、成唯識論や解深密教を所依として、弟子の窺基が創始した宗派で、唯識宗ともいう。日本では、後に開花した宗派には救済的な思想が入っているが、奈良時代に入った他の宗派と同様に法相宗は学究的で、信仰を広めて救済に導くという部分は無く、仏教の本質を研究する哲学的な宗派である。ただ、宗派が発祥した中国ではすでに滅んだとされ、奈良時代に伝わった日本で未だ存在するという、他の中国伝来の書物や文化と同じような歴史を辿っているのは、保存が得意の日本らしさが出た部分と言えるかもしれない。

 現在の興福寺は、かつての広大な境内は失ってしまったが、五重塔や東金堂はさすがの重厚感で、平成30年(2018)には中金堂も再建され、境内の各所で積み重なった歴史を感じた。ただ、やはり境内を区画する塀がないというのは、金堂の脇から国道の車列が見えてしまうなど締まりが無い感じで、神社や寺院に特有の厳粛感には欠けるため、個人的には、発掘調査のあった回廊の再建も進めてほしいところだ。

 

最終訪問日:2021/3/27

 

 

一連の観光区域の入口にあたり、西や南にホテルが多くあるほか、寺の横には観光バスを止める駐車場があるなど、興福寺はツアーなどの観光客の観光起点となっているようですね。

東金堂の工事もようやく終わり、前に訪れた時よりも寺院として厳粛さが増しました。

後は回廊があれば、往時の雰囲気が随分と出るはずなんですが・・・贅沢かな?