Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

東大寺

東大寺大仏殿

 奈良の大仏として有名な盧舎那仏を本尊とする華厳宗大本山山号は無いが、大本山東大寺ともいう。

 東大寺建立のきっかけは、天平15年(743)10月15日に聖武天皇が発した盧舎那仏造顕の詔であるが、これ以前に前身となる寺が存在していた。同じく聖武帝が基親王の菩提を弔うため、神亀5年(728)に建立した金鍾山寺である。

 聖武帝にとって、基親王は第1皇子であり、生後僅かひと月で皇太子に立てるほどの盲愛振りであったというが、満1歳になる直前に病死してしまい、可愛い盛りの子を亡くした聖武天皇の悲哀は、寺院の建立へと向かった。後世では、亡夫や亡き子供を弔うための寺院建立というのがよく見られるが、金鍾山寺はその最も古い時代の例のひとつではないだろうか。このことは、聖武帝の仏教への帰依の深さを物語っている。

 金鍾山寺はその後、天平13年(741)に国分寺建立の詔が発せられたことにより、翌年には大和国国分寺に昇格し、名も金光明寺に改められた。また、全国に建てられた国分寺の総本山である、総国分寺にも定められている。

 大仏造顕の詔が発せられた頃の聖武帝は、天災や疫病を鎮めるべく遷都を繰り返していた時期で、都は平城京から恭仁京、そして難波京へと遷っており、現在の信楽にも離宮である紫香楽宮を造営していた。大仏は当初、この紫香楽宮甲賀寺での建立を目指していたといい、やがて聖武天皇はこの紫香楽宮への遷都を企図する。しかし、臣民の賛同を得られず、都は平城京へと戻り、大仏の建立も奈良で行われることとなった。詔が発せられてから、天平17年(745)の大仏造像工事開始まで2年の月日が空いているが、それはこのような理由のためである。

奈良の大仏こと本尊である廬舎那仏坐像

 大仏造像工事は、開始2年後の同19年(747)には大仏の鋳造が始まり、約2年かけて8度の鋳造が行われた。天平勝宝3年(751)には頭部への螺髪の取り付けも終わり、翌同4年(752)に天竺出身の僧菩提僊那を招き、盛大な大仏開眼供養会が開かれている。これにより、大仏は仏像として完成したのであるが、大仏殿を始めとした堂塔伽藍の建設はこの後も続けられ、ようやく延暦8年(789)に東大寺としての完成を見た。

 国家の一大事業でもあった大仏鋳造には、多くの金銭と労働力が必要で、このため、朝廷は、市井で人気のあった僧行基に協力を要請し、行基勧進で寄付を集め、後にその貢献から大僧正の位を得ている。

 だが、大仏が鋳造される20年ほど前までは、仏教は国家のものとされ、僧侶は国家から任命されるいわばエリートであり、民衆に広めるべきものではなかった。行基はこれに反して民衆に仏法を説き、多くの寺院を開き、様々な土木工事を行って民衆の暮らしを助けたため、朝廷から迫害を受けたという。しかし、朝廷も害が無いと見たのか、天平3年(731)には弾圧を解き、やがて行基大徳の称号も与え、そして大仏造像にも協力させたのだから、いつの世も権力側は身勝手なものである。

阿形と吽形の金剛力士像が収められた東大寺南大門

 東大寺では、詔を発した聖武天皇勧進した行基、開眼供養をした菩提僊那に加え、金鍾山寺で華厳経の講義を主催し、後に東大寺の初代別当、つまり開山となった良弁を合わせ、四聖と呼ぶ。また、東大寺のことを四聖建立の寺と呼ぶこともあるようだ。

 東大寺は、完成後、南都六宗兼学とされ、南都各宗派の経論が保管されていたといい、後には天台宗真言宗を加えて八宗兼学の寺と呼ばれた。また、南都七大寺に数えられ、同じ七大寺の興福寺と同様に多くの僧兵を抱えており、時には強訴に及んでいる。しかし、平清盛の検断に大いに反発した為、その子重衡の軍勢によって治承4年(1181.1)に焼討ちされ、中心部の堂塔を全て焼失した。だが、僧重源の精力的な勧進により、4年後には早くも大仏開眼供養が行われ、更にその5年後には大仏殿も再建されている。

 その後、戦国時代の永禄10年(1567)には、かつて三好長慶の家臣として同僚だった松永久秀三好三人衆の6ヶ月に渡る戦いの場となり、東大寺を本営としていた三好三人衆の軍を松永軍が夜襲し、兵火によって大仏殿が失われ、大仏自身も頭部の一部を失ってしまう。後に信長が、大仏殿を焼いた男と久秀を紹介したのは有名な話だが、この焼失の実際の理由は、失火によるものらしい。また、この一連の戦闘のものと思われる銃弾が、南大門の金剛力士像の解体修理の際に、像の中から出てきている。

お水取りで有名な二月堂

 大仏殿と頭部の一部を失った大仏は、応急的に修復されたのみで、風雨に晒されることとなり、やがて雨露をしのぐ仮堂が建てられたのだが、その建物も慶長15年(1610)に風で倒壊してしまう。つまり、江戸時代初期は、鎌倉の大仏同様露坐の姿であり、今とは大きく違った様相だったのである。

 この姿に涙した公慶上人は、幕府に掛け合って勧進を進め、最初は非協力的であった幕府も、後には将軍綱吉自らが援助をし、元禄5年(1692)に大仏の修復を終えて開眼供養を行った。そして、大仏殿も宝永6年(1709)に竣工し、100年以上もの荒廃した期間を挟んで今の姿となったのである。

 現在の東大寺は、奈良観光の中心として、いつでも修学旅行生や観光客が大勢おり、特に南大門と中門の間に人が多いようだ。見所としては、大仏は当然として、巨大な鐘楼やお水取りで有名な二月堂、法華会が行われる三月堂などがある東側の山手も良い。この区域は落ち着いた雰囲気があり、古刹らしさが味わえる。ちなみに、お水取りが2月、法華会が3月に行われることが建物の名の由来といい、四月堂というのもあるようだ。古代の官寺そのままに境内は相当広く、さすがはかつての総国分寺である。

 

最終訪問日:2021/3/27

 

 

関西では、東大寺二月堂でのお水取りがニュースに上がってくれば、そろそろ春かなという感じですね。

また、遠足で必ず行く場所でもあり、なんだかんだ割と身近な存在です。

あとは、柱の穴!

大仏さんの鼻の穴と同じ大きさと言われる穴が柱に開けられているんですが、ここを通り抜けられたら、腹が出がちなおっさん業界ではちょっと自慢できます笑