Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

大溝城

大溝城天守

 信長が、六角氏や浅井氏を滅ぼして近江を平定した後、湖西の要地である高島郡は磯野員昌に与えられ、新庄城がその拠点であった。

 員昌は、もともとは浅井家の重臣で、要衝佐和山城を任されていたほどの勇将であったが、元亀元年(1570)の姉川の合戦後、浅井氏の本拠小谷城佐和山城の間が分断され、主君浅井長政の猜疑の目もあってやむなく織田方に降伏したという人物である。その後、高島郡を与えられるなど、降将としては優遇されていたのだが、天正6年(1578)に突然出奔してしまった。

 員昌の代わりに入部したのは、信長の甥である津田(織田)信澄で、これは信澄が員昌の養子になっていたという事情によるが、一説には、信長が員昌に信澄へ家督を継がせて隠居することを命じ、それを拒否した員昌が追放されたともいわれる。ともかく、新たに入部した信澄は、舅であった明智光秀の協力で同年(1578)に本拠地を築城した。これが大溝城で、縄張は光秀が担当したという。

 史料には、信長は安土、坂本、大溝を船で行き来したという記述があることから、当時は、秀吉の長浜城を加えた4城が琵琶湖の水上交通の要になっていたはずである。つまり信澄は、信長と家督争いを演じた弟信勝(信行)の子という複雑な生い立ちから、織田ではなく津田という名字を名乗っていたものの、その才覚と果断な性格で信長に信頼され、要衝を任されるまでになったという事なのだろう。だが、一方で、果断な性格の別の面とも捉えられるが、暴虐であったとする史料もある。もしかすると、信長は、自身に似ても似つかなかった愚息達よりも、気質が似ていたが故に信澄を頼もしく思っていたのかも知れない。

 築城4年後の天正10年(1582)、本能寺にて信長が光秀に討たれ、俗に言う本能寺の変が発生した。この変は、信澄にとっては、叔父信長が舅光秀に討たれるという近親者同士の構図だったのだが、その影響は自身にも及び、信長の三男信孝や丹羽長秀に光秀の娘婿ということで疑いを掛けられ、城代を務めていた大坂城の二ノ丸千貫櫓で討たれてしまっている。

 この当時の大坂城は、後の秀吉が築いた豪華な大坂城ではなく、石山本願寺跡を改修したと思われる城で、西国に関する司令塔のような機能を持っていたようだ。本能寺の変の際、信孝は四国征伐の準備で兵卒を集めていたが、変を知った兵卒が四散してしまったために弔いの兵を挙げることもできず、やむなく僅かな手勢をまとめて拠点となる大坂城へと入城した。

 このようなやや追い詰められた状況が、信孝の猜疑心を増幅させたらしく、やがて長秀と相談して信澄を討つという行動に出たのである。だが、信澄が光秀と繋がっていたという事実は史料からは見えず、どうやら無実であったらしい。信澄にとっては厄災であったが、織田家の血を引き、しかも信長に気に入られていた信澄を、後継者争いから消すための行動であったという説もあり、不意の事態だけにいろいろな憶測が成り立つようだ。

 信澄の死後、城は若狭を中心として領した長秀の属城となり、重臣上田重安が城代を務め、以後は、天正11年(1583)に加藤光泰、同13年(1585)に生駒親正、秀吉の直轄領を挟んで同15年(1587)に京極高次が城主となった。そして、高次は同18年(1590)に八幡城へ移封となるのだが、これより後の城主には諸説があるようだ。高次の後は織田三四郎が入城して城代を務めたと見られ、続いて直轄領の代官として吉田修理、城主として織田秀雄、岩崎掃部佐などの名が見えるが、すでに廃城になっていたとの説もあり、詳細は知れない。

 城は、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となり、資材は甲賀水口の岡山城へと移され、城としての役目を終えたとされるが、上の城主の説と同様、廃城時期にも天正13年(1585)や慶長8年(1603)との説があるようだ。その後、同5年(1619)に分部光信が入封したことで大溝藩が成立し、旧三ノ丸に陣屋を構え、維新まで続いている。

 往時の城は、今も残る乙女ヶ池を防御に利用しつつ、内堀も備えた水城で、同時期に築かれた安土城と同様に、琵琶湖の内湖を利用した城であった。また、水上交通の要の役割があったことから、琵琶湖から乙女ヶ池まで直接入ってくることができ、そのまま城へ入る事もできたと考えられ、復元図では、本丸が乙女ヶ池と接するような構造になっている。そして、このほぼ正方形の本丸の南に二ノ丸、そしてその西に三ノ丸を構えていた。

 このような、利便性優先の構造を採ることができたのは、信長が完全に近江を掌握し、湖上交通の安全が確保され、直接本丸へ船で攻め寄せられるという危険性が低かったということの証なのだろう。

 現在の城跡には、朽ちかけた天守台以外はほとんど遺構が残っていないが、石垣には野面積ながら大きな石が用いられており、織豊時代の石垣の特徴が色濃く出ている。かつての城地は、天守台から南の市民病院、同じく西の分部神社、JR高島駅あたりまでで、僅かに駅前の信号近くに三ノ丸跡の碑があり、その近くから天守台を経由して乙女ヶ池へと抜けることができる道が出ていた。城跡の周囲の道などを見てみると、昔の町割りが微かに残っているように感じるが、確実に当時と変わらぬ姿を留めていると言えるのは、乙女ヶ池の葦と水に浮かぶ水鳥ぐらいなのかもしれない。

 

最終訪問日:2001/8/24

 

 

明確な遺構としては、主に天守台が残っている程度なんですが、その天守台の趣がいい。

ちょっと朽ちた感があって、何とも言えない寂びがありますね。