Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

小谷城

山王丸の大石柿

 浅井氏3代の居城跡で、五大山城のひとつ。

 浅井氏は、三条公綱落胤説や物部守屋の後裔説等がその出自として知られるが、有名な亮政以前のことはよく判っていない。史料には、佐々木京極氏の根本被官、つまり譜代とあり、更には鎌倉時代の古鐘に名があることから、浅井郡丁野の在地領主だったと思われる。三条公綱落胤説は、成り上りの家にありがちな落胤説の典型で、家祖を貴種に求めたものと思われ、浅井氏自身も藤原氏を称していた。

 浅井氏が勇躍するのは亮政の時で、大永3年(1523)からの主君京極高清の長男高延(高広)と次男高吉の家督争いの際、高吉を推す高清と老臣上坂信光に対し、浅見貞則を盟主に国人連合が形成されたが、亮政はここに名を連ねている。国人衆は、今浜城や上平寺城を攻撃して高清らを尾張へ追い、高延擁立に成功するのだが、今度は貞則が権勢を得て国人衆に対し専制化したため、他の国人と共に亮政はこれも追い、ついには国人衆筆頭となった。

小谷城鳥瞰図

 小谷城は、この争乱時に麓の清水谷の詰として築かれたようで、大永5年(1525)の六角氏の侵攻時には存在しており、築城年は諸説あるが、同4年(1524)の説が有力である。

 その後の亮政は、復帰を目指す高清・高吉父子と信光、これらを支援して江北支配を目論む六角定頼、追放後は高吉側に転じた貞則などと熾烈な争いを演じ、時には国外逃亡も経験しながら国人衆の掌握に成功し、京極氏を圧倒して戦国大名化した。

 史料には、天文3年(1534)に居館で京極父子を饗応したとあり、その後、京極氏を小谷城内の京極丸に迎えて江北支配権の委譲に成功したようだが、この父子は高清・高吉父子なのか、高延・高秀父子なのかははっきりとしない。また、天文10年(1541)には高延と対立して上坂氏や浅見氏らと争っており、戦国大名化したと言っても、江北支配は磐石とはいかなかったようだ。

小谷城本丸は鐘ノ丸とも呼ぶ

 この高延らとの対立中の天文11年(1542)、亮政は病没する。跡は久政が継いだが、久政は妾腹であり、正室の子である姉の婿で、一族でもある田屋明政と早々に対立したという。それに加え、旧主京極氏や六角義賢、美濃斎藤氏らの攻勢も強まったため、久政はやむなく義賢に服して支援を受け、息子の室に六角家臣の娘を迎えると共に一字を貰って賢政と名乗らせた。この賢政が後の長政で、永禄2年(1559)に家臣団の総意によって当主として擁立され、翌同3年(1560)の野良田の合戦で義賢の兵2万5千を1万余で破り、六角氏の影響下を脱するのである。

 久政は、これらの事跡から、愚鈍であったともいわれるが、水利の調停や支城網の整備等、治績もあった。普通、クーデター後は、生命はともかく権力的には抹殺され、奪回には内部分裂か外圧が必要な場合が多いのだが、久政は強制的隠退後もこれら無しで発言力を残しており、相当な政治的感覚があったようだ。確かに武は長政に及ばないが、英雄亮政死後の混乱を収拾した実績もあり、現実的な政治家だったのかもしれない。また、この事から、この家督交替劇は、久政自ら独立のために仕組んだという説もある。

小谷城京極丸

 英気溢れる長政は、独立後は着々と勢力を蓄え、永禄年間(1558-70)中頃には信長と同盟し、信長の妹で美女として名高いお市を室に迎え、その後は足利義昭の将軍擁立にも協力した。だが、信長が元亀元年(1570)に事前通達もなく朝倉氏を攻撃すると、長政は盟約を破棄して突如背後から信長軍を襲ったのである。

 長政の離反には諸説あり、信長より朝倉氏との古い同盟を優先したとの説が有名で、朝倉氏攻撃の際には通達するという一文が盟約にあったが、それを信長がしなかったためともいう。ただ、家中は元々信長との同盟に諸手を挙げて賛成というわけではなく、親信長派と反信長派があったようだ。

 長政自身は親信長で、後に小谷城落城寸前にもかかわらず信長が降誘するほど互いの相性も良かったが、父久政を筆頭に親朝倉の意見が多く、家中分裂回避のため、やむなく信長との同盟を破棄したとされる。だが、久政が心情的に親朝倉かといえば微妙で、そもそも久政時代の六角氏への臣従で朝倉家との同盟は一旦消えており、それを進めたのも久政自身であった。それを考えると、久政も分裂回避のために多数派の空気を代弁しただけなのかもしれない。この辺り、専制的なイメージのある戦国大名の、権力バランスの実態が見え隠れするようで、想像を掻き立てられる。

広大な小谷城大広間

 離反後の長政は、同年6月に朝倉軍と共に姉川で織田・徳川連合軍と戦うが、朝倉軍の不甲斐なさもあって敗れた。だが、その後の盛んな行軍を見ると、大敗というような決定的敗北ではなかったようだ。

 しかし、孤立した佐和山城の勇将磯野員昌が離間策によって降り、比叡山が焼かれ、信長包囲網の柱である武田信玄が上洛中に没すると、徐々に小谷城は孤塁と化す。そして、天正元年(1573)に小谷山頂の大嶽城を守っていた援軍の朝倉軍が、浅井家臣浅見対馬守の寝返りを機に本隊と合流して退くと、織田軍はこれを追撃し、そのまま越前で朝倉氏を滅ぼしてしまう。これで完全に孤城となった城は徐々に侵入を受け、やがて秀吉の急襲で京極丸が陥落すると、本丸の長政と小丸の久政も分断されてしまい、もはやこれまでと久政、次いで長政が自刃した。

 城は、標高495mの小谷山にあり、山頂の大嶽城が最初期の小谷城本丸という。後の久政と長政の時に尾根筋に拡張され、大嶽城を後方の守りに、南の尾根線上に山王丸、小丸、京極丸、中ノ丸、本丸、大広間、黒金門、金吾丸を置き、麓の出丸へと続く。西の尾根には福寿丸、山崎丸を配し、この尾根の間の清水谷には浅井氏の居館や家臣の屋敷があった。

本丸南東下の赤尾屋敷の郭には浅井長政自刃の碑が建つ

 縄張を見ると、本丸を頂上に置かず、やや下段の大きな平坦地に置くというのは、朝倉氏の一乗谷城とよく似ている上、他にも朝倉流築城術が見られるという。また、金吾丸に朝倉教景(宗滴)が援軍として在陣していたなど、亮政時代は、朝倉氏のやや従属的な立場にあったという証拠も城には多い。

 現在の小谷城は、かつて田園だった清水谷が史跡として整備され、谷から東の出丸と金吾丸の間に通じていた大手道も残っているほか、金吾丸までは舗装道が通じ、城内にも遊歩道がよく整備され、散策しやすくなっている。このため、近年の戦国ブームもあって、多くの人が訪れていた。

 中枢部の大広間や本丸には礎石が残り、当時の建物を想像させるが、落城後に小谷城を与えられた秀吉が、長浜城築城時に資材を持ち出し、天正3年(1575)に廃城となったため、石垣等は多くない。だが、巨大な堀切や本丸と山王丸のやや古風な野面積の石垣など、難攻不落を誇った当時の姿を髣髴とさせる遺構も残されており、巨大な古城としての趣は抜群で、散策しながら戦国の歴史にどっぷりと浸ることができる。

本丸北東側の大堀切

 

最終訪問日:2010/10/11

 

 

10数年振りに小谷城を訪れてびっくり!

金吾丸の所の駐車場も麓の駐車場もいっぱいで、10年前には人影がほぼ見えなかった城内も、やたらと人がいました。

竹田城もそうですが、ここまで変わるもんなのかと。

翌年の大河ドラマがお江だったので、早めの大河効果もありそうです。

さすがは五大山城!